福音書以外に読むとよいものは?

 途切れるたびにスエデンボルグを少しずつでも読み進めなさいと勧められたことをお話ししました。それは私個人についてのことだったかもしれませんので、あくまで参考程度と受け取られてください。


「福音書以外になにか」ということで考えていたのですが、スエデンボルグを読むということは、“みことばの書”全体を読むことになるのだと思います。


 “みことばの書”と書きましたが、それはスエデンボルグが旧新約聖書全66巻をすべて神直々の啓示とは伝えていないからです。 “みことばの書”はそれをこの地上で人が読むと天使にもみ言葉開かれ、天と地の交流が起こる書のことだということです。 具体的にはモーセ5書、ヨシュア記~列王記、詩編、預言書、福音書と黙示録になります。 

それらの書は相応で書かれており、字義通りの意味は外側の器に過ぎず、その言葉で表象されている内意こそが重要であると。


旧約聖書ではヨシュア記から列王記までの歴史書と歴代誌の2系統の歴史書がありますが、歴代誌の方は、相応で書かれて天界と地上の交流を生じさせる”みことばの書”ではありません。箴言、雅歌などの知恵の書もそうです。ヨブ記は古代教会の書で、相応で書かれていますが、ユダヤ教会以降、キリスト教会、新教会の私たちにとってはみことばの書ではありません(相応で書かれているのに何故みことばの書ではないのか、詳しいことはわかりません。スエデンボルグがさらっと触れているだけなので)。 


みことばの相応の釈義について、スエデンボルグの膨大な著作があって、相応によるみことば講義は創世記・出エジプト記(『天界の秘儀』)と黙示録(『啓示による黙示録解説』等)について書き残されています。みことばの書すべては網羅されていませんが、各箇所で他のみことばの書での参照箇所が引照されていて、それはほぼみことばの書全般にわたっています。 


なぜ、みことばの書以外の書簡も聖書として編纂されているのか?、

スエデンボルグはそれも主の摂理だと言っています。 歴史の部分は子供たちを喜ばせ、子供たちが聖書に触れる入り口となり、やがて聖書全体を読むように導かれるために置かれているそうです。 イスラエル民族の物語は波乱万丈です。かつて、司馬遼太郎さんが日本の歴史は世界に誇れる実に上質な歴史であると述べておられました(「それが日露戦争で勝利してから太平洋戦争に突入して敗戦するまでの期間だけが暗黒のようになっている」と彼の主張は続きます)。

民族史に上も下もないのでしょうが、イスラエルの歴史もまた、その興味深さや学ぶことの多さという点で、さらには、神に特別に選ばれてみ言葉を授けられた民族の歴史という点で、上質で示唆に富んだ民族史といえるかもしれません。 


勇者モーセもかっこいいし、サムエル記は手に汗握って、次のページ次のページと読まされます。みことばの書からは外れている歴代誌も、もし聖書になかったら淋しかったろうなと思います。歴史は私たち人間の性質や時代の読み方を教えてくれます(たとえば、先日引用した預言者ミカヤとミカヤ以外の全預言者の話*)。現代に生きる自分の選択を考えるときに大変役立ちます。 


*預言者ミカヤとミカヤ以外の全預言者:これは、霊界を見てきたという霊能者たちのほとんどすべてがこの宇宙に輪廻転生があることを伝えており、霊界を行き来する人々の中でも、スエデンボルグとサンダーシングのほとんどその2人だけが、それを否定していることについて、このエピソードは私に支えとなってくれます。私はいま2つの点で霊を見極めます。一つは輪廻転生を受け入れているか否定しているか、もう一つはただ一人の人とだけの結婚愛を言っているか。どんなによいことを言っていても、善い人であっても、この2つを持たない人や教えは、天界から来た純粋な啓示ではないと。例えば、斎藤一人さん、江原啓之さん、美輪明宏さん、そして、すこし霊能者とは異なりますが大嶋信頼さん。


レビ記(モーセ5書の3巻目)だけは非常に退屈です。これもすべて相応で書かれているので、とても重要な書であることは間違いないのですが‥。レビ記を読むときは聖書図鑑か、『聖書 -原文校訂による口語訳 ペーパーバック』(フランシスコ会聖書研究所 )で読むと少しでも読みやすいです。この聖書は、高い方の単行本版ではなく、安くて後から若干の改訂を経たペーパーバック版の方が持ちやくて、開きやすくて使い勝手が良いです。レビ記に限らず、図表が一番多い聖書じゃないかな。 


預言者たちのことばや足跡も励みになります。特に神さまに文句言っている部分が。 ヨブ記とエレミヤ哀歌はその代表です。哀歌3歌は何度も何度も開いてきました。詩編でも悲しみの詩編と名付けて、2のつく詩編を繰り返し読んでは泣いていました。22編、42編、52編、62編、102編などです。 実は、イエス様の隠れた生涯は、詩編とバプテスマのヨハネに表れているのです。 


また、新約の使徒たちの手紙は、主イエス様ご自身のことばはほとんど扱われておらず、内的意味も含まれていませんが、「教会のためには有用な書」であるとスエデンボルグは言っています。 

私は、キリスト教徒の人たちにとって、直接主のみ言葉に触れずに、その人の魂が決定的に自身の魂を汚してしまわないように役立っているのではないかとも思っています。プロテスタントの教会にいた頃は、説教のほとんどはパウロの手紙からでした(プロテスタントはキリスト教ではなくパウロ教といった方がまだ実態に近い)。

プロテスタント教会ではパウロの手紙こそ講釈の意義があって、福音書はそれより単純なもの、私が肌で感じた感覚としては、“劣ったもの”という位置づけがあったようでした(読んだときに流入する天来のものが全然違うのに、プロテスタントの人たちはその感性がないようです、あるいは洗脳されて天界のものを感じとる霊的感覚が鈍麻しているのかもしれません)。


 スエデンボルグは、使徒たちの手紙は基本的に間違っておらず「教会に役立つ」、「初代教会の人たちは、主イエスが神であると認めていた」と述べていますが、私はほんとうかなぁと感じてしまいます。 

三位一体という言葉そのものは聖書のどこにも出てきませんが、カトリックでもギリシャ正教でもプロテスタントでも、父なる神と子なる神を別人格としてとらえてしまうのには、パウロの教説の影響も大きいと手紙を読むときにしばしば感じるからです。使徒の手紙を読んでいると、どうもパウロは、キリストと父なる神を切り離して受け取っていたのではないかと感じざるを得ないふしがあります(スデデンボルグはそうではないといっていますが)。あるいは、そう読み取られてしまう書き方、そう読み取られることを許してしまう書き方になっていると思います(イエス様を神様と漠然と認めていても、まだあいまいな理解であったのかも)、現行のキリスト教会の神学はその影響もあってそうなっていると言ってもいいのかもしれません。 


ヤクザから牧師になった進藤龍也も刑務所で、最後の望みを聖書にかけて、創世記から読み進めて、エゼキエル書33章のみ言葉に出会った時に、え!?俺でも救われちゃうの!!!と大喜びになってばんざーいと大喜びして、看守から静かにしろ!と叱られたと言っていました。 

私もプロテスタント教会に行き始めた頃は学生で、1年に旧約聖書1回、新約聖書2回読むように通読表をもらっていたので、旧約聖書も3,4回は読んでいるのだと思います。30年以上前のことで、いま旧約聖書の内容の多くを忘れていると思いますが、ときどき要所要所で思い出して、支えや判断の助けになってくれるのも事実です。

当時の聖書は赤線で真っ赤になってました(その聖書は高校生の時クリスチャンになった友達にあげてしまいました)。詩編34編とイザヤ書41:10~14は私をかろうじて人の社会で生きれるように支えてくれました。    

その後は、福音書こそ、毎日触れて何度読んだかわからないくらい読んでいますが、聖書はあちらこちらと部分的に読むくらいで、全体の通読はほとんどしきれていません。  詩編を読んでとてもよかったということですので、由里加さんもよかったら若いうちに、少しずつ、他の聖書も読んでみるといいかもしれません。  

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]