『聖書の脈をつかもう』2日目 アダム/贖罪/主はとこしえの父/アブラハム

初めに


本書は聖書の世界観を知り、聖書に親しむために有益な書籍ですが、プロテスタント神学による聖書解説で、スエデンボルグによって開かれたみことば啓示とは異なります。

現代のプロテスタント教会、特に福音派では、聖書を字義どおりに捉えて読む読み方が主流です。スエデンボルグは、表面上の歴史的、あるいは寓話的記述を通して、そこに天界の内意が相応によって記されており、この地上で人がみ言葉の書を読むとき、天界でも同時に、御言葉の書が啓かれ、天使らは御言葉の文字の意味に含意された天界の真理が啓示されてそれを読んでいると教えてくれています。

御言葉の書が私たち人間にも与えられているのは、その内意として記されている天界の秘義を伝えるためです。


聖書の文面通りに受け取っていくとすると、誠実に真理を求め、善に行きたいと願う人たちは、聖書の様々な矛盾に心を悩ませるかもしれません。

愛なる神が、妬んだり、贔屓したり、皆殺しにせよ(聖絶せよ)と命じたりするだろうか、それが「愛なる」と形容される神であろうかと。

また聖書自体の矛盾(福音書の齟齬)や、歴史考証から見ての誤りなどについても、つまづいてしまうことになります。


この、これから初めて聖書を開いて聖書の世界に触れていく人にとって、本書は、聖書を楽しく分かりやすく解説してくれていて、とても有用だと思いますが、本書のプロテスタント神学や教会伝統をもとにした解説を、そのまま聖書の真実だと思い込んでしまわないように、気づいたところに説明を補記していきたいと思います。

わたしが補記するにあたって、そのもとになっているのは、スエデンボルグとカール・ヒルティによる聖書釈義になります。


1⃣ アダムとエバは個人の名前ではありません。 p.23

人類最初に存在したアダム教会のことが、創世記に寓意的に記されています。その寓話の一言一言にどんな天界の内意が含まれているのかは、スエデンボルグの『天界の秘義』に詳述に記されています。


聖書のシンボル 人名編 アダム~洪水
https://littlestar-swedenborg2018.ssl-lolipop.jp/symbolnameadam.html古代の人々は「名前」によってある物事の「本質(性質)」を理解した。・・・(聖書で)「名前」が言及される場合の多くは、実際の名前ではなく、そのものがどのような性質のものであったかを示している。・・・ノア、セム、などの名前をもった人間が実在したのではなく、礼拝がそのように名付けられた(そのような性質をもっていた)。セス、エノシュ・・・などの名前はさまざまな教会を意味している。(天界の秘義)
アダム(Adam)アダムとその妻は、世界で最初に造られた人類ではなく、最古代の教会(天的な教会)、またその人々、その信仰を表している。それが「ちりから作られた」のは、再生によって人間でないものから(真の)人間にされたことを意味している。(善悪を知る木の実のエピソードについては、植物編の「木」を参照)「人」を意味するヘブル語は「アダム」と「エノシュ」の二種類あり、アダムは天的な教会の人、エノシュは霊的な教会の人を指す。(創世記2章~)

エバ(Eve)
主に対する信仰の生命(最古代教会の)がエバ、また「生けるものすべての母」と呼ばれている。(創世記4-20)



2⃣ イエスさまの十字架刑によって人類が贖われたわけではありません。 p.24

イエスさまの全生涯を通してのご自身の肉性を栄化して内なる神性に同化していく全生涯を通して、2000年前当時、霊界、さらには天界までも侵食していた地獄を引き下げ、天界・霊界・地獄を秩序付け、人々が天界の光を受けて、祈り、神の救いを享受することができるように、救いの道を開いたのです。十字架刑が、その最後を飾るイエスさま最大の試練ですが、それは私たちが受ける罰を身代わりになって受けて、それで私たちの罪が帳消しになったというような安直でずるい“贖罪”となったのではありません。イエスさまの全生涯が十字架だったのです。そして、毎日、罪に打ち勝ち、肉に神性を広げていくことにより、最後、ついに、十字架の上で、その肉の最後の一片までも神性栄化しつくし、「完了せり」とご自身の栄化を完全になし終えられたのでした。そのことにより、天界の命を失った私たち人類が、理性の光で、御言葉に応え、悔い改めて、助けてくださいと日々主に求めていくことにより、天界の命を日々受けて、生涯かけて天界に向かってよみがえることができる道を開いてくださったのでした。


3⃣ イエスと御父は別物ではありません。 p.24

神の子イエスさまは、またみ父ご自身でもあります。

マリアからダビデの末裔という罪にまみれた遺伝悪を引き継いだ肉を受け、その最内奥は神(御父)そのものの命を宿して、お生まれになりました。もの心ついたころから、内なる神性が、外なる肉性を、御言葉の光に照らされながら、肉の罪性を悔い改めて、栄化していかれたのでした。

外なる肉体については、毎日、私たちと同じように、食物を食べて、生き、成長していかれましたが、内なる霊魂も、私たち地上に生きる人間と同じように、天界の光と熱という霊魂の食物を食して成長していかれました。霊的食物である天的光と熱を受ける方法は、み言葉を読み、その光に照らされて日々悔い改めて天来の熱を受けていくこと、すなわち、父なる神に祈ることです。

人としてこの世をお行きになった主イエスさまも当然、私たちと同じようにその肉と霊とを生き、成長していかれました。すなわち、肉の面では毎日飲食し、霊の面では毎日祈ることが必要でした。それが、イエスさまが「父よ」と祈った理由です。



4⃣ 聖書の登場人物は象徴として、天界のなんらかの真理を表していますが、その人そのものが理想の信仰者であったとは限りません p.26

アブラハムは、年老いて奇跡として与えられたたった一人の跡継ぎイサクをささげるように神に言われて、モリヤの山に登り、そこでイサクを燔祭の捧げものとしてささげようとしたと創世記には記述されていますが、愛なる神が、いくら神の民の族長アブラハムの信仰を試すためとはいえ、子供に手をかけろというでしょうか。いいません。

子供を生贄にして神に仕える、災いからわが身を守るという邪宗は、アブラハムの時代にもすでにあちこちの部族で存在していました。アブラハムもそれらの悪霊の吹込みを受け、そのような強迫的で病的な恐怖に苛まされ、それを神の声と錯覚したのです。

現実に、子どもの父親になった現代のだれか男性が、そのような啓示(幻聴)を受け、我が子を殺そうとしたところを現行犯で制止され保護されたとしたら、警察に連れていかれ、刑務所に入れられないでしょうか?

このあたりは、太宰治のアブラハムとイサクに関しての手記『父』の方が、2000年間の何億に上るクリスチャンたちよりもまともに、現実にそった受け取り方をしています。ユダヤ教徒もキリスト教徒も、この話を現実に引き寄せて読んでこなかったから、こんな狂気に陥って寸でのところで子殺しを押しとどめられた男のことを「信仰の祖」などと的外れな称号で呼びならわすようになり、しかも自分たちの理想の一つとして崇めるようになってしまったのだろうと思います。

ここで、もう一つのことが思われます。このように的外れな聖書の読み方でも、それを神は人が誠実に神の道を進むために、そこから浮き上がったよい思想を用いて、その人の救いに役立ててくださるということです。









ヒルティ喫茶:虹息

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