聖書の脈をつかもう 霊性探求6 カイン/ダビデ
遅ればせながら
どうして急に、『聖書の脈をつかもう』を繰りながら、追補の解説を始めたのか、その始まりを記しておきましょう。
最初は、なんだか聖書の解説本が読みたくなって、いろいろ探し始めたのです。古事記の旧約聖書の関係が書かれた本をしらべていてだったかなぁ‥、キアスムス、コンチェントリック(集中構造)って目にしてからだったかなぁ‥、『旧約聖書に強くなる本』なつかしいなぁ、って検索してからだったかなぁ‥、
まあ、『聖書の輪郭』って書名で調べて紐づいたところを観ながら、どれがよさそうかなぁって、そしたら『聖書の脈をつかもう』が読みやすそうって思って、『聖書の脈をつかもう』で検索してたら、聴くドラマ聖書JSUブッククラブのサイト https://jsubookclub.jp/ に行っちゃって、
「JSUは、Just Show Up の略で、「ただ来るだけ」という意味。オーディオブックを聴きながら本を読み、分かち合いをする新しい形の読書会です。耳と目の2つの感覚で本を味わうので集中力が高まり、内容をより深く理解できます。」
と書籍の内容がオーディオブックになっていて、グループで申し込むと無料で音声が聴ける(1年間)、さらに、グループの人数分(上限5人)、朗読の元の本を送ってくれる、無料で!!!って、うっそーと思って、申し込んでみたら、サイトに描かれている通り、3冊の『聖書の脈をつかもう』を送ってくださったのでした。この団体に献金しとかないと‥
そこでは、みんなで集まったり、zoomで読んだ(聴いた)内容を分かち合ったりといったスタイルが紹介されていました。
まあ、それぞれに『聖書の脈をつかもう』を配って、読み始めたのですが、初めてプロテスタント牧師の教説に触れるメンバーから、質問されて、「ああ、それはプロテスタントの神学だから」と答えると、読むのやめておこうかなぁ、真に受けちゃうからと言われたので、そしたら、それぞれの箇所について、スエデンボルグから、解説していこうかなぁと思い立ったのが昨日の 「『聖書の脈をつかもう』2日目」のブログだったのでした。
プロテスタントの福音派では聖書の一言一句を字面通りに、事実の表記と捉えて読むことを主張している人たちが多いですが、スエデンボルグは、その字面が事実そのものかどうかは重要ではなく、その言葉に含まれた内意こそが重要であり、それは「相応」によって書かれていると述べています。
イスラエルの歴史や祭儀を史実通り、当時の取り決め通りに寸分たがわず知ることは、現代に生きる私たちにどれほど重要な事でしょうか。聖書を、キリスト教の経典として読むことの意義は、それが私たちの魂の救いに関わる教えを伝えてくれるからでなくてなんでしょう。
み言葉の内にある霊性は、地上の人の一人がみ言葉を読むとき、天界でも、そのうちに隠されている霊的な真理が啓かれるところに存する。 『天界の秘義』10633 どうして、聖書の言葉が自然界、人間界のことを正確に伝達した記録だと思い込んでしまったのでしょう。聖書は人の魂を救いに導くために人類に伝えられた精神界、霊界、そして天界の啓示なのです。
「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」 マタイ福音書 13:35
さて、本日の箇所ですが、
1⃣ 前回も出てきたことですが、「カイン」は一人の人物を表していません。
創世記の第1章から11章に出てくる人々は、実際に生きていた個々人の男や女ではありません。その章に出てくる人名は、ある霊的な性質を持った人々の類型や集団を表象しています。
アダムは最初の人間ではありません。アダム以前にも、地上には人々がいました。創世記1:26~29。「アダム」は最初の教会を表象しているのです。
「カイン」はその教会の分派であり、仁愛よりも信仰が重要であるとしました。これは「アベル」により表象された仁愛を「殺し」ました。洪水はそれに続く虚偽の氾濫であり、それによって「天的」な宗教の時代が終わりました。「ノア」は第二番目に生じた「霊的」な時代の始まりを表象しています。(『内なる光』ブライアン・キングズレイクp.163)
聖書のシンボル 人名編 アダム~洪水
古代の人々は「名前」によってある物事の「本質(性質)」を理解した。・・・(聖書で)「名前」が言及される場合の多くは、実際の名前ではなく、そのものがどのような性質のものであったかを示している。・・・ノア、セム、などの名前をもった人間が実在したのではなく、礼拝がそのように名付けられた(そのような性質をもっていた)。セス、エノシュ・・・などの名前はさまざまな教会を意味している。(天界の秘義)
カイン(Cain)
カインとアベルは、教会における2つの本質的なものを表す。それは知恵と愛であり、また信仰と仁慈である。カインは第一子である。最古代教会で最初の供え物、すなわち最初に生まれたものは信仰であるため、カインは知恵、また信仰であり、アベルは仁慈、すなわち隣人への愛を表す。しかし特にカインは、愛から切り離された知恵、仁慈から切り離された信仰を意味している。カインの捧げものは、愛から切り離された信仰の礼拝である。愛から分離した信仰のうちにいる人々の状態が悪に変わったことが「ひどく怒り」「顔を伏せた」によって表されている。エホバがカインの額にした印は、知恵や信仰そのものが地上から失われないよう、区別されたことを指す。(自己の)救いの手段のためにのみ信仰をもち、仁慈の善を否定しこれを殺すものも、カインと呼ばれる。(創世記4-1)アベル(Abel)
アベルは仁慈、すなわち隣人への愛を表す。そしてアベルの捧げものは、仁慈の伴った礼拝を表す。エホバがアベルの捧げものに目を留められたことは、仁慈の事柄すべて、また仁慈の伴う礼拝が主の目に喜ばしいことを表す。カインがその兄弟アベルを殺したことは、信仰から仁慈を切り離し、信仰が仁慈よりも大事なものとして優先した人々のもとで、そうした信仰が仁慈を消滅させたことを指している。(創世記4-2)
2⃣ ダビデその人は、神の心にかなう人、私たちの信仰の模範とすべき人物ではありません。
ダビデが息子の謀反にあい、命からがら逃亡するところをシムイがついてきて呪ったとき、そのシムイを成敗しようと申し出た長官に対して述べた言葉は感動的です。
「いうがままにしておきなさい。私の罪のゆえに、主が彼にダビデを呪えと言われたのだから」
と。
猟奇的で執拗な殺戮、略奪、極めて自己本位な姦淫と暗殺を犯してきた人物ですが、それらから自身の悪行を悔い、負け犬のようにほうほうのていで実の息子から王座を奪われて逃げる自分のことを呪う臣民の言葉を神からの言葉として受け取るまでに謙遜な魂に変えられたのかと、これぞ、神が人の魂を浄化し、よみがえらせる見事な実例だと、初めて読んだときは感動しました。
ところが、ところがです、その呪ったシムイのことをダビデはずっと恨み続けて、今わの際で、息子ソロモンに「おまえは頭の切れる男だから、どうすればあやつの白髪頭を血に染めて黄泉に下らせられるか諮れるだろう」と必ず復讐を遂げるように遺言するのです。
これが死ぬ間際の言葉ですからね、ダビデは様々な罪も犯したけど、悔い改めたから救われているのではと言った信者もいましたが、最後の最後、悔い改めていません、人生の最後の最後、呪い通して、主への悔いらためを捨てきって、自身の死を完成させたのです。
この辺りは、バテシバとの最初の息子が病となり、断食して灰をまとって主に救ってくださいと泣いて懇願していたのが、亡くなったと聞いた途端、すぐに服を着替えて、身を整えて食事をはじめ、あまりの変わり身の早さに「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます」といぶかる臣下に「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう」と答えた場面も連想させました。 きわめて現金*。
*現金=利害によって簡単に主張や態度を変えるさま。打算的。
彼にとって神との遣り取りは、自分の損得の駆け引きなのです。シムイの讒言に対してのあっぱれな信仰と謙遜な言動も、部下たちに見せるパフォーマンスだったのです。
そして、クリスチャンの人たちには申し訳ないけれど、否定しようのないことは、臨終でのダビデが自身の人生の結論として顕した性根、それは、けっして恨みを捨てない、自身のしてきたことは棚に上げて(悔い改めてなどいなかった)、というおぞましい魂の様でした。
聖書のあちこちで、また福音書でも「ダビデ」の名前が尊いものとして挙げられているのは、それが、救世主、キリストを表徴したからです。ダビデその人は邪悪で、しかも、最終的に主の救いのみ手を撥ね退けて黄泉に下っていってしまいました。
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