『聖書の脈をつかもう』第3日目 聖書はすべてが神の言葉ではない
聖書は66巻のすべてが神の言葉ではありません。
聖書の内、神の言葉 ─ 聖言(みことば)の書と言いますが、─ は内的意味のある書のことで、聖言を通して人は主と連結し、人が聖言を読むとき、天界でも聖言の内意が啓かれ、天使と人の交流が生じています。
内的意味のない書は聖言の書とは言いません。
聖書の内、御言葉の書は以下のものです。
旧約聖書:モーセ五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下、ダビデの詩篇、預言書、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書
新約聖書:四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、黙示録。(『天界の秘義』10325)
内的意味のある書としてはヨブ記もそうなのですが、ヨブ記は古代教会における聖言の書で、ユダヤ教会の聖典にも引き継がれましたが、キリスト教会に生きる私たちにとっての聖言の書としてスエデンボルグは含めていません。
『聖書の脈をつかもう』での主流に当たる部分に旧約聖書の聖言の書がほぼ含まれますが、旧約聖書には、歴史書に、列王記的歴史書と歴代誌的歴史書に分けることができ、列王記的歴史書がヨシュア記~列王記第二までとなります。それでいうと、旧約聖書の聖言の書は、モーセ五書、列王記的歴史書、詩編、預言書とまとめて覚えることができます。
また、スエデンボルグは面白いことを教えてくれています。
聖書の歴史的な巻は子どもたちが物語で聖書に親しむために、天界と交流の心地よさを体験するために与えられたというのです。
「歴史的部分は、幼児や児童が聖言を読み始めるように与えられた。というのは、歴史的部分は楽しいし、心に残るからであり、それによって天界との交流が与えられるからである。そしてこの交流は喜ばしい。というのは彼らが無垢で相互愛の状態にあるからである。これが歴史的聖言が与えられた理由である。」(『天界の秘義』6333)
及川幸久さんは、現在は幸福の科学の信者ですが、もともとクリスチャンホームで育ち、青年時代はキリスト教徒で、大学もICUでキリスト教神学を学ばれています。及川さんが、そこで教授から教わったのは、キリスト教には、イエス神学とパウロ神学の二つの神学があるということだったそうです。
プロテスタント教会に通うと分かりますが、説教のほとんどはパウロの手紙からです。福音書はそれよりも単純な、中味の乏しいものというふうに位置づけられているようです。
この辺り、新約聖書を、ギリシャ語テキストから、人間の所業として研究している田川健三さんの文章は、神学や教会組織に忖度も遠慮もなく書いてくれるので痛快です。
第2コリントス書簡の解説で、
「実は、コリントスの信者たちは、パウロの言うこととイエスが言っていたことがはっきり食い違っている、という事実に気が付いていた。‥この件(ユダヤ教戒律での穢れた食材についての相違)だけでなく、知れば知るほど、パウロとイエスの間にある様々な相違が気になっただろう。
いろいろ議論の挙句、パウロはついに、“自分は(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない”と宣言してしまう(第2コリントス5:16)。かつては「キリスト」のことを「肉」として、つまり現実の人間として生きていたイエスとして知っていったとしても、いまははっきり、そういうキリストを知ろうとは思わない。自分の知っているキリストは、炎天下の旅路で自分が幻想の中で出会い、自分に語り掛けてくれたあのキリストだけだ、それが本物のキリストだ、と。
これは、すでに、ペテロたちのキリスト教が自分たちが出会ったという「復活」のイエスを中心にして成り立っていたのをもっと個人体験的に純化して継承したものであるが、以後の長いキリスト教は、パウロを中心としたこの種のキリスト信仰と、実際に生きていたイエスという男のさまざまな発言や行為の思い出を大切にしていこうとする人々の思いの間で、永遠に融合しない二本の太い糸がないあわされた不思議な縄として、歴史を刻んでいくのである。」
そして、ローマ書簡の解説においても、田川氏は次のように、ズンズン、ずけずけ、裸の王様のラストに出てくる子供のように、だれに憚ることなく有り体に記していきます。
「‥(ローマ書簡は)パウロ教の教科書としては、よく書けている。だから、ローマ書は以後のキリスト教会にとって、特にプロテスタント教会にとって、最高の教科書として重要視、絶対視されてきた。プロテスタントの神学者の中には、今でも、聖書の中の聖書、聖典の中の聖典は、唯一ローマ書であると、おっしゃる方々がおいでになる。聖書のほかの文書はすべて、ローマ書に見られるパウロ教の基準にかなう範囲内でのみ受け入れられるべきだと。そこまで頑張っちゃうのなら、キリスト教という看板もやめてパウロ教に書き替えればいいのに」
その通り!けだし至言、よくぞ言ってくれた、田川先生!
それでは、私たちのスエデンボルグはパウロ書簡について何と言っているか?
使徒たちの著作の特徴
パウロやその他の使徒たちの著作に関しては、私はこれらを『天界の秘義』の中に入れませんでした。というのは、これらは教義的な著作であり、預言書、ダビデ、福音書、黙示録のような聖言のスタイルで書かれていないからです。聖言のスタイルは例外なく照応からなっており、そのためそれは天界と直接交流することができるのです。教義的著作においては、天界と交流するもう一つのスタイルがありますが、それは間接的なものです。それらが使徒たちによってそのように書かれたのは、これを通して新しいキリスト教会が始まるためでした。そのために、教義的なことは聖言のスタイルでは書かれることができず、もっと明瞭でわかりやすいやり方で書かれることになったのでしょう。それにもかかわらず、使徒たちの著作は、教会にとって良い本です。なぜなら、それらは、主ご自身が、福音書や黙示録の中でそうなさったように、仁愛の教義とその信仰を固く守っているからです。(「バイエル博士への手紙」1766.4.15)
パウロはじめ、使徒たちの手紙には相応で込められた内意がなく「聖言」、神の言葉そのものではないが、有益であると。でも、今日、キリスト教会、特に、プロテスタント教会でそうされているように、「聖霊によって書かれた誤りのない神の言葉」として受け取るべきではありませんし、福音書や、主キリストの言葉と同等の物でも、ましてや、ー当然ですがー優るものでもありません、が、現行の教会では福音書の主の言葉よりもパウロの言葉の方が重視されていることは否定しようのない事実です。
現在のプロテスタント信者の方にとっても、間違いなく、福音書は使徒の手紙に優るべきものであるはずですー自分たちの宗教をキリスト教と呼ぶのであれば、(パウロ教と呼ぶのでなく)ーし、福音書の中でも、イエスの言葉は、他の登場人物や旧約の言葉に優るものであるはずですし、イエスの言葉でも、「まことに(アーメン)あなた方に言います」は、他のイエスの言葉よりもより重要で、さらに加えて、「まことにまことに(アーメン、アーメン)あなた方に告げます」と前置きされて語られたイエスの言葉は、聖書の中で最も重要な言葉の部類として受け取られなければならないはずなのです。
また、スエデンボルグは、パウロには主の聖言を記すことが許されなかったと述べています。
最初、そのスエデンボルグの言葉に出会ったときは、えー、、そうだったかなぁ、とピンとこなかったのですが、確かに、パウロの手紙の中に、キリストは~と、キリストについての教義的な事は何度も出て来ますが、イエスが~と仰ったと、イエスさまの聖言は一つも出てこないのです。唯一、パウロがイエスの言葉を口にしたことが記されているのは、意外にも、『使徒行伝』です(使徒行伝20:35)。
相手のおとめに対して欲情が抑えられなくなったなら結婚すればいい、そうすれば罪にならないから(コリント人への第一の手紙 7:36-)といった結婚観(それ以前の道徳観か)を神の言葉と受け取れますか?女は被り物をしなくてはならな(コリント人への第一の手紙 11章))、と言った当時の当地の文化に沿った勧めを、(旧約の相応の表記としてでもなく)人類普遍の神の言葉と思いますか?何度も、何度も、献金を募る使徒らの言葉を、霊感を受けて書かれた誤りのない神の言葉として受け取りますか?自分のあった試練を、~を何回、~を何回、~を何回と数え上げていく神の聖徒(コリント人への第二の手紙11章)って、見習いたいですか?(反面教師としては教訓になりますが)
スエデンボルグが出版せずに備忘録として個人的に記していた『日誌』に霊界でパウロに出会った記事があり、何度も天界の光を受け入れるよう説得したけれども、残念ながら、パウロ自らがそれを拒み、地獄に落ちていったことが記されています。
2025/10/02 #及川幸久 #羽賀ヒカル
00:00 チャプター
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2:24 神を失った日本人、その先にあるものとは
6:28 世界を揺るがした事件の真相、チャーリー・カークが問いかけたもの
14:15 聖書に隠された真実、イエスが本当に伝えたかったこと
15:10 イエス教とパウロ教 👈
20:09 一神教、多神教、そして「内在神」という新たな信仰の形
26:27 イーロン・マスクも語る「内在神」と繋がる生き方
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