敵も味方もあなたのための主の道具 / 意思をすっかりささげた後はすべての願いが叶う
『眠れぬ夜のために 第一部』カール・ヒルティ
9月23日
かのパリサイ人や律法学者たちが主イエスを非難して言ったことを、いやしくも主イエスの誠実な弟子たるものはだれもみな経験しなければならない。さもなければ、まだイエスの弟子とは言えない。
実生活において、しばしば、人々がわれわれに敵対して、あるいは味方して行動するのは、彼らが自由にそうするわけではなく、彼らを通じて我々に働きかけようとされる主の道具に過ぎないことに気づいて、慰められる場合がある。だから、やれ敵だ、味方だと決めてかかるのは、たいてい、あまり大仰(おおぎょう)にとり過ぎることになる。
10月5日
人間が主にささげることの出る唯一の贈り物は人間の意志であり、主が価値をおかれるのもこの贈り物だけである(その他の物は残らず神の賜物である)。
そして、人間がこの意志をすっかり主にささげるならば、その時、主は、─ こういうと不遜に聞こえるかもしれないが ─、主のみ心を人間のものとされ、そのあとは人間のすべての願いをかなえてくださる(もっとも、この祈願そのものも主によって導かれるが)。こうなれば、人間はただ祈願し、そして受け取ればよいことになる。
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