幸福論第2部読了

昨年のうちには収まりませんでしたが、本日、家内の実家への行き帰りで、昨年の年始から少しずつ読み進んできた幸福論の第2部を読了しました。今回も、聖書の引照箇所の多くは引照しきれなかったのですが。

私は30年以上前、20歳のころに、一度、幸福論3部作を読了しています。信じられない‥

死と隣り合わせの時期で、藁にも縋る思いで読んでいたのだと思うのですが、その頃の自分がヒルティの後人に伝えようとしていた主題をくみ取れていたとはとても思えない。事実、あれから30年以上たって、まだ約束のものを受けていません。ダンテが3つの獣に怖気をなして、後じさりし、地獄の各所をめぐってからようやく煉獄に入っていったように、この30年はそのような長きにわたる迂回の期間だったように思います。

おそらく、それでも来世や神の秩序や最終的な勝利の希望を持たせてくれる端々の言葉だったり、ヒルティの論理だった文章の小気味良さだったり、よく理解できないなりにも伝わってくるヒルティの精神界の心地よさだったりで、一枚、一枚、次のページを読み進まずにおれなかったのでしょう。


幸福論も第2部の終盤に近付くと、ダンテの引照箇所も天上界編からが多くなっていました。『神曲』についても、私は30年ほど前に一度読了しています。これも信じられない‥

こちらは、ヒルティも特別な本として推奨していることから、背伸びして、また、読了したことを誇るため、といった動機があったのだと思います。


今の私は、ヒルティを全面的に受け入れているわけではありません。ヒルティは、他のキリスト教の指導者たちのように、スエデンボルグを異端視せずに、その主張を真っ当なものとして評価はしていましたが、天界で見聞きしたことについては、あまり語るべきではないと、一定の距離を取り、スエデンボルグと出会っていながら、その啓示を、ほかの神秘家や敬虔主義者らと一線を画するものとは受け取っていませんでした。また、パウロら使徒の手紙を福音書よりも理解するのにより思索を要するものとして、非常に重視しています。また、旧新約の言葉を、内的にも受け取っていますが、より外的な処世訓としても受け取り、外的な部分も重視しています。


そのような点はあるにしても、やはり、ヒルティの文章に浸ると、現実の友人とは得られない、内的な充足が得られます。

また、ヒルティがいてくれたことで、人間の作ったキリスト教会の教えや宗教著作、神学、哲学、文学、他宗教といった膨大な教え、主義の森で迷って抜け出せずに一生を終えてしまうことなく、サンダーシング、スエデンボルグへと進むための道を開いてもらえたことも事実です。ヒルティが彼らの教えを直接勧めていたわけではないですが、教会主義に陥らなくてよい、自分の頭、感性で考えてよい、自分で直接聖書の神を求めていってよいと勧めてくれたことで、スエデンボルグまで歩を進めることが出来たのでした。


一昨年、久しぶりに『幸福論 第1部』を読み、昨年から今日までかけて『幸福論 第2部』を読み終えましたので、今年は『幸福論 第3部』を少しずつ読んでいこうと思います。


ヒルティ喫茶:虹息

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