ヒルティとスエデンボルグ(1)
ヒルティの著作には、何か所かスエデンボルグについて言及しているところがあって、私が覚えてるうちでも最低2か所はあります。著作集はまだ全部読んだことがないので、また、『眠られぬ夜に』『幸福論』の文庫本5冊の内でも忘れてしまっている所があるかもしれないので、まだもっとあるのかもしれません。
そのうちの一つが先日、出てきました。『幸福論 第一部』のエピクテトス25節です。岩波文庫版では71ページ。
「これがすなわち、スエーデンボルクが言うところの「悟り」であって、「学者の理解しえないものである。」」
この一文の最初、「これがすなわち」の「これ」とは、その前に書かれている内容のことですが、そこには次のように書かれています。
「およそ意思放棄の‘ない’信仰は、人間の完成のために全然、無価値であって、人を自然のままの状態に残すものである。正しく“信仰”と呼ばれうるものは、元来、一つの贈り物であって、意思的忠誠に対する不断の報酬なのである。人はどんなに努力しても、自分自身い信仰を与えることはできない。」
と。よって、これらの文章の前に、次のイエスさまの言葉が置かれています。
「信ずることを‘得れば’、必ず救われるであろう」
さらに、別の面から述べられ(詳しくは本文を)、次のようにヒルティは述べています。
「…その意味で、信仰というものは、やはり自分自身の行為であり、正しい回心はすべて自分の行為をもって始まるのである。」
仏教でいう「自力」と「他力」の問答を思わせますが、ここでは、それはコインの裏表のようなものであって、人に、「予定説」で現れてきそうな自分には不可抗力であったというようないじけた言い訳に流れることを排しています。
そして、さっきのスエーデンボルク(←ここの訳者の表記に合わせます(*^^)v)への言及につながっていくのです。
確かに、スエーデンボルクもそのようなことを記していますが、ヒルティがここで言っている
「これがすなわちスエーデンボルクが言うところの「悟り」」
というこの「悟り」という用語は、スエーデンボルクの著述のどの用語のことを言っているのかが、すぐに思い当たりません。‥と、いまスエデンボルグの本をパラパラ見ていたら、わかりました。これは、きっと「啓示」ですね。
「原則として、目で確かめて分かったことしか信じない人は信じることはできません。なぜなら、霊的・天的なことは目に見えないし、想像することもできないからです。人は主に根差して賢くなるのが本当の順序です。つまり〈みことば〉に根差すことですべてが始まります。それで、理性と記憶知においても照らされるようになります。」 『天界の秘儀』129
それが本当であればどんなにいいだろう、という善導の光に導かれたいという善意からの疑いと、そこまでにできた自分の価値観を固持して自己愛の延長物となし、それを脅かすものを「今もてる悟性で確認できないから」と否定してかかる狭量からの疑いがあります。
この解説文を終わるにあたって、ヒルティは次のような彼の時代らしい「ごく身近な比喩」でわかりやすく説明してくれています。
「この過程は、自動秤量器のそれに似ている。その効果が間違いなく現れるようにしようとすれば、必ずこの〈一片の自我〉を──他のものでは絶対に駄目だ──、まず投げ入れなければいけないのである。」
いま、私の思いついた喩‥
水を求めて井戸の「水」をくみ上げるときに、まず、呼び水として、「水」を差しださなければならないように、私たちの命を真に生かす活きた信仰(活ける水)を受けためには、まず、わたしたちの先入主を差し出さなければならない。
ヒルティが最後に引用している主のことば(すべてヨハネ福音書)を──
5:30
わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
5:44
互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
9:25
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:39
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
11:40
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
7:17
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
もう一つ、イエスさまの言葉を加えさせてください。
マタイ福音書11:25~26
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
ああ、わかりやすい(わたしだけ?)。ぜひ、聖書の引用箇所の文章まで載せた形でヒルティの書籍を発刊してほしいですね。
0コメント