1日のうちに同じ旧約聖書の章が3回出てくる…
「偶然の一致は神の芳香」
■1つ目‥30年ぶりに開いた『幸福論第一部』
1つ目は、夏休み中に、ほぼ30年の歳月を経て、また最初から読み返し始めた『幸福論 第1部』で出てきました。エピクテトス24節、岩波文庫版だと68ページです。
「人類のみに奉仕する高貴の人たちはすべて、‘ひどく’倦み疲れるものである。
これがすなわち、元来、それ自身としては大いに尊敬すべき、場合によっては崇高でさえある考え方、いわゆる、「ヒューマニズム」の欠点である。旧約聖書の預言者の幾人かは、すでにこの思想をかなり明白に述べている。」
という文章に続く引照で、旧約聖書の3つの箇所が挙げられています。
エレミヤ書17:5~9
主はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
イザヤ書40:29~31
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
ホセア書14:4(新改訳・口語訳では14:3)
アッシリヤは私たちを救えません。
私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。
みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。
■2つ目‥何年かぶりに思い出して注文し、その日届いた古本
そして、次に出会ったのが、その日に郵便ポストに届いていた古本でした。これまた、数日前、久しぶりに思い出して、イゾベル・クーンの本をAmazonで探していた時に、今まで知らなかった彼女の書籍を見つけて、たまたま古本が出品されていたので申し込んだのでいたのでした。彼女の『神を求めた私の記録』は、何年か前、神戸の古本屋さん・つのぶえの本棚で見つけて、その邂逅がうれしくて、すぐ買っていたのでした。
今回、Amazonでまた検索してみたお目当ての本は、彼女のその次に出た本です。題名は忘れてしまいました。いろんな証しがそこには載っていました。自分を刺したルームメイトを、その刺される中でも赦し続けたために、その傷の多さに比して奇跡的に出血が少なくてすみ、生き延びた青年の話、泊まっていたホテルが火事となったときに、御声の導きを受け、それ以外のタイミングでは決して助からなかっただろうという絶妙の声の導きでそこから脱出することのできた旅人の話などが出ていました。その本には今回も行き当らなかったのですが、これまで知らなかったクーンの別の書籍があって、それを注文したのでした。
その題名も『日照りの時の緑の葉』
その表紙を開くと、その題名となったみ言葉が巻頭に記されています。
その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、
葉は緑で、
日照りの年にも心配なく、
いつまでも実をみらせる
エレミヤ17・8(英訳聖書)
■3つめ‥たらたらとさぼりながら聞いてきた説教DVDを再生した途端、流れてきた聖句(に絶句)
そして、3つ目は、教会の牧師からいつももらっている集会の説教DVDを再生したとたんに耳に入ってきた言葉です。
昔は説教中に眠ってしまうということは決してなかったのですが(当時は、どんなに睡眠が取れてなくて、説教前にはうとうとしていても、説教が始まると不思議とその眠気が消えてしまうのでした)、ここ数年は、説教中に、うとうとしてしまうことが起こるようになりました。今の牧師に出会った当時のような信仰の純真さや情熱が減退してしまったからかなぁとも思うのですが、そんな、ちょくちょくうたたねしてしまう私のことを見かねて、ある時から師匠の方から、地方に散らばっている信者さんたちに送る説教のDVDを私にもくれるようになりました。もらったDVDを少しずつ見ていくのですが、その日、DVDを再生して流れてきた言葉が、はい、これでその日3度目、エレミヤ書の17章からでした。聴いていて、あれ、これって、もしかしたら、もしかして、エレミヤ書の方の(エレミヤ書の章句は詩編にも同様の章句がいくつもあります。e.g.詩編1:3、72:27、88:15、35:4…)同じ章の言葉かな、‥いや、そうだ、そうだ、まちがいない‥‥と実際、ちょっと鳥肌が立ってきました。
イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。
「わたしから離れ去る*者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。
私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
ああ、彼らは私に言っています。
「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」
しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。
私は、いやされない日を望んだこともありません。
あなたは、私のくちびるから出るものは、あなたの御前にあるのをご存じです。
私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。
私に追い迫る者たち**が恥を見、私が恥を見ないようにしてください。
彼らがうろたえ、私がうろたえないようにしてください。
彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。
‥
エレミヤ書17:13~18
*「わたしから離れ去る」とは、信仰から離れ去るということです。
**「私に追い迫る者たち」とは、私たちの「自己愛」のことです。
何十年も開いていなかった本を久しぶりに読み始め、ちょうど読み進んだところにあった個所、何年かぶりに思い出して注文した本、そして、それがその日届いて、その時、開封して、目に入ってきた巻頭の聖句、そして、分割しながら、また間隔があきながら、滞りながら、今日久しぶりに再生したDVDから流れてきた聖書の言葉、これらの偶然たちの何重もの重なり合いが、1日のうちにクロスして、トリプル・シンクロニシティとなり、私の意識にその聖書のメッセージを強く刻み付けます。
私の目と耳は、その日、そして今日もまた、エレミヤ書17章のこれらの聖句に触れておかなければならなかったのでしょう。そして、この御言葉を基に悔い改め、静まって、天の力を待ち望まなければならなかったのでしょう。
最近、シンクロニシティが多いです。多すぎです。日曜日にブログでアップしているウェブワーシップでは、前日の土曜日に、説教を選び、讃美歌を選び、聖句を選びます。そして、それらのいくつかが、翌朝の礼拝で出てきます。先日は、同じ讃美歌が3つ、同じ聖句が1つ、あわせて4つの「同じ」がありました。
はっとして、いやが応にも、いま、その時に、それを見聞きしなければならなかった理由は‥と頭が考え初め、その歌の文句、聖書の箇所が、すんぶたがわず、その「今」というときに見聞きしなければならなかった言葉として印象付けられていきます。
そして、このシンクロニシティに感じ入って、いま、このときに私が文章にすることで、今日、これらの言葉に、この報告に、出会うべくして出会う皆さんの生活・人生とのシンクロニシティもまた、いま、このときに起こっているのでしょうね。さらに言ってしまえば、こうした出会いーそこに内在して心に投じられるメタファーーを通して、意識にも上らずに刷り込まれていく無意識への作用こそが、この後の私たちの歩みにより深く、より強く、影響していくことでしょう。
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