称讃・華美・大がかり・蒐集 と 求道

たいてい、地上における神の国tのための大掛かりな施設よりも、かえって、小さな施設の方に、はるかに多くの祝福と栄えが宿るものである。なぜなら、

「主は(ひとり)高くいらせられるが、低い者をかえりみられる」詩編138:6

そして、神は、この世のすべての傲慢なものや華やかなものから必ず離れておられるからである。このことは、絶対に信じてよろしい。

         『眠られぬ夜のために 第一部』7月30日


良心や正直や、気高い心を傷つけることなしに財産家になることができるのなら、ぜひともその道を教えてくれたまえ、もしそれが可能なことだったなら、私も財産家になりたいものだ。

                              エピクテトス


人々の間にある大きな区別は、彼らがいったい何に関心を持つかという点にある。

その人の関心が、物質的な事物、今日では特に、商業・交通・国際間の取引の拡大と簡易化や、一般に富の増加の問題に向けられているか、それとも、道徳・立法・国民教育の改善や、教会の浄化、国家の理想化というような、むしろ精神的なものに関心を抱いているかである。


もし、私たちのキリスト教が、わたしたちを日々の生活や職業上の任務に前よりも忠実にし、金銭上の問題に、利己的でなく、富と名誉に対して、いっそう無関心にし、すべての人に対して、より親切に、心に、より大きな喜びと未来に対する希望とを抱かせるというのでないならば、それはまだ本当のキリスト教とは言えない。それは、キリストのキリスト教というよりも、むしろ、宗派、あるいは、教会にかかわる事柄に過ぎない。

                    『眠られぬ夜のために 第一部』9月17日


この世において、高いものや、高貴なものや、うわべだけ目立つ者に対する(たとえ秘かにであっても)なんらかの憧れが、心の中に残っている限り─現代では教養ある、あるいは半ば教養ある階級ではほとんど例外なくそうであるが─「この世の君」は依然として、その人々に対して権限を失ったわけではなく、彼らは揺るぎない幸福に達することができない。

                    『眠られぬ夜のために 第一部』11月17日


主もまたおっしゃられています。


これらのことを、学者や知者にではなく、幼子に表してくださいました。それは御心にかなったことでした。


互いの間で称讃を求め合い、ただ一人の神からの称讃を求めないあなたがたが、どうして私のことを信じることができようか。


人々から尊ばれる者は神の前で憎まれ嫌われるのです。


あらゆるどん欲に注意しなさい。

*このとき、だまし取られた、本来は正統に自分が受けることになっていた親の財産のことについて、仲裁を依頼した者にむかって主は言っています。それはあなたの貪欲です。わたしは、その世の活動に加担しません。と。


使徒ヨハネの言葉にも


肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、神からでたものではなく、世から出たもの、世と世の欲とは、過ぎ去る、しかし、神のみ旨を行なうものは永遠にながらえる。(1ヨハネ2;16) 


と。



ヒルティ喫茶:虹息

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