子供に自分の信仰をどのようにつたえるのか?


Q。「子供にイエスさまのことをどのように伝えるのか?」



ずばり、伝えません。


長じてどこからきてどこへ行くのかと思索するような時期がきて、子供から聞かれてもすぐには教えません。

「このことにおいて、私は極めて慎重です。」


一度も礼拝に出るようにと言ったことはありません。日曜日の過ごし方も自由です。日曜日にあるクラブに入ることもぜんぜん何も言いません。

聖書の話もイエスさまの話もしません。

ただ、生活でいやでも子供たちには見えていきます。信仰の姿、なんでもまず祈りによって道を決める姿が。


そして、前から思っていたことは、クリスチャンホームの子供たちのようには自分の子供をしたくない、ということでした。

毎日人の陰口を言って、陰口で人間関係を自分の思ったように動かそうとしていた少年の頃に聖書に出会い、そこにイエスさまの涼風が吹き込んで、「イエスさまのようになりたい」との思いを埋め込まれ、悪口の世界から引き出されて、それから教会に行くようになった少年の私にとっては、教会でクリスチャンホームの子たちや洗礼を受けた人たちが、平気で、なんの臆するところもなく、「普通に」悪口や陰口、ときにイジメのようなことをする情景に出会って大きな幻滅を感じました。

クリスチャンホームの子供たちは、幼少期から親や信者の大人たちの姿を見せられておい育ち、言葉で言うこと・教会で言われていることと、実際にすることは違っていていいのだと、偽善の生き方が本性にしみこんでしまっていることが多いようです。外でも家でもイエスさまにならって、そのように生きようと努めているまじめな信者さんの家庭ではそうなっていないようでした。が、こちらの場合は、逆にとても堅苦しかったり、教条的だったり、不寛容だったりすることが見られることがありました。もちろんもちろん、善良で、優しい子たちもいました。


「警官や教師、牧師の子供は変な奴が多い」

というのは高校時代の重量挙げ部の顧問の先生の言葉ですが、私もその後の人生で、その言葉を確認する機会が何度もありました。外では善人として生きなくてはいけない役柄で、でも、家の中ではそれとは裏腹の姿を子供たちに見せつけて──そのような生育環境は、偽善が当然となり、善悪が混在し、まともな良心というものが形成されにくいようです。それよりは、はなっから悪辣だったり、粗野だったりといった大人たちの環境でいた方が、善と悪が混在させられないで、後年、主の恵みが臨むときに、大きな悔い改めをして、善を一筋に目指していくという改心者に変えられるのです。「悪に強きは善にも強し」。イエスさまが売春婦や取税人、罪びとたちと共に食事をし、粗野な漁師たちを弟子として一番近くに置かれたのも当然です。パリサイ人や律法学者といった「信仰に厚い」人たちからはほんのわずかな人たちしか帰依しませんでした。


性の話に勝るとも劣らず、宗教の話は一個の魂をもつ子供にとって、とてもデリケートな話です。子供に、あの子がいいぞ、この子がいいぞと親が望ましい異性の話を何度も持ち掛けていたら、子供たちは一様に反発するでしょう。宗教についても似たところがあります。でも、何も言わなくても、日々、自分を改めながら、子供の幸せを願いながら生きている親の子は、親の性向に似ていくものです。


わたしは息子に「お父さんとお母さんは信じているから教会に行くけど、○○は来なくていいんだよ」といったことがありました。でも、将来、かならず、イエスさまのもとに導かれていくことをほとんど確信に近いレベルで信じています。

世間のお父さんたちが、

「お前が二十歳になったら一緒に酒を飲みたいものだ~♪」というところを、わたしは、子供が大きくなったら、そして、子供自らが探し当て、主の道を進み始めるようになったら、子供は私自身の命が行っているこの世に存在する、弟以外にはたった一人の魂なので、隔てなくイエスさまのことを話し合うことができると思っていますし、そうなる2,3十年先を思って楽しくなります。


川島英吾「お前が二十歳になったら(^^♪」



子供には日々の生活でイエスさまが伝わっていく──

欠点だらけでも、それは問題ではなく、どれだけ誠実に祈っているか、もちろん、祈っている姿を見せようとしなくてもいい、いえ、見せようとしてたらだめです。一緒に生活しているから、いやでも見られてしまいますし、たとえ一度も見られていなくても、伝わります。


イチローが少年のとき、お父さんは一緒にバッティングセンターに行き、打撃練習をしろとは言わず、ただ、自分一人が打って、それをイチロー少年に見せ続け、イチロー少年自らが、「僕にも打たせて」というのを待ったという有名なエピソードがあります。

ちょっと現代催眠のアプローチに似ているでしょ。ご家族に行動を変えてもらうために、「つぶやき作戦」を伝授したことを覚えていますか。子供への信仰の伝授は、さらにもっともっと、遠回しに遠回しに、控えめに控えめに、ちょっとはぐらかすくらい、ちょっと遠のけるくらいにして、少しの強制も感じさせないように導いていくことになります。

これはそのまま主の私たちを導く導き方でもあるのです。私たちが自分で自由に判断し意志しているという私たちの感覚を決して侵さないように、私たちを救いに導く天の作用は毎瞬、私たちに臨んでいるのです。



Q。「子供に死のことを神さまが決めておられることを言ったら、神さま嫌い!と言われていまいました‥」


子供に死をどう伝えるか、ですね。


上に取り上げたイチローのお父さんの態度、現代催眠、と来て、それらに似たものに、シュタイナー教育があります。『7歳までは夢の中』というシュタイナー育児の書籍があるのですが、その書名がすべてを表しています。


『7歳までは夢の中』

7歳までは夢の中、ファンタジーの中、メタファー(暗喩)の中です。現実と向き合わせなくていいのです。コウノトリが赤ちゃんを連れてくるのよ、でいいのです。夏が過ぎたらセミは天国にいって鳴いているよ、でいいのです。天国ってどこ?ってきかれたら、あの雲の一番明るいところかな、とかあの空と海のひとつになるところかもね、とか、ママは満点のお星さまの中のひとつにあるような気がするの、とかで子供が子供なりにメタファーの中でなっとくすると子供の「なぜ」は収まります。それははぐらかすことでも、ごまかしたり隠したりすることでも、嘘をつくことでもなくて、メタファーの中の真実なのです。子供はまだ半分天国の住民ですから。

「お母さんはいつも○○ちゃんと一緒にいて、絶対離れないよ」

でいいのです(もし言いたければ

「イエスさまがお母さんにそう約束してくれたから」

と付け加えてもいいです)。1%の死別の確率は考えず、それこそ、イエスさまにゆだねて、また、霊になっても一緒にいますからね、嘘じゃありません、現実的な大人たちの間でする言い方をしていないだけです。


八木重吉の詩で、たしか「天国」というのがあったと思います。ネットで検索したけど、出てこなかったので、細かなところは違っているかもしれません。

こんな詩です。


天国はどこにあるか、

あの雲のとりわけ明るいところ、その上あたり、そこに天国はある。


天国は物質界にはないけれども

(「天国はあそこにある、ここにあるという形では来ない。天国はあなた方のうちに来る」福音書)、

太陽や金色の星や明るい雲で表徴されていて、「そこにある」と言っても嘘ではありません。

人に希望を持たせ、人の心に平安を与えるものはすべて、やがて真実の方向に向かわせるものです。


太陽の輝く限り、希望の光もまた輝く。  


シラーの有名な言葉ですが、物質界の「太陽」と私たちの心の内に現れる「希望」と何の関係もありません。前の文と後の文と全く、論法上、〈根拠〉と〈結論〉としては分断してしまっています。でも、この言葉を聞くとき、私たちは励まされます。うん、そうだ!と気持ちを新たにさせられます。ここにはメタファーがあって、太陽が表徴するもの(生きとし生けるものを生かし続ける愛なる神)を思い起こすことが、直観的に、「希望を持っていい」と保証するのです。ほら、八木重吉の詩は嘘じゃないでしょ。


松尾芭蕉がね、弟子の俳句を指導した話が伝わっているのですが、芭蕉は俳諧とは虚と実の間を詠むことと言ったんですね。

お弟子さんが、

「糸切れて 消えていきけり 奴(やっこ)だこ」

という句を作ったのですが、芭蕉先生は、この句は事実(実)に過ぎないから俳句ではないと。

それで、お弟子さんが作り直した句が、

「糸切れて 雲となりたり 奴だこ」

この句に対して芭蕉先生が評した言葉が、この句は嘘(虚)だから俳句ではないと。

お弟子さんは訳がわからなくなってしまって、芭蕉先生、そしたら、どうしたら俳句になるんですかと問いただしたんです。

そして、芭蕉先生が訂正した句が

「糸切れて 雲ともならず 奴だこ」


実(事実)そのものでもなく、また虚でもない、そこに真実(個々の事実の向こうに普遍的に存在する人生・人間の真実)があり、それこそが人の心を揺さぶり感動させる、それを表すものが俳諧であると。


子供にはとくに、現代催眠でいわれているような、芭蕉の言う「虚でも実でもない」受け答えが良いようです。


「○○ちゃんね、神様のお家に行ってみたい!ママと○○くんと三人で行ったらいいね!

どこにあるのかな?お空かな?おやつとかあるのかな?広いかな~?」

「ママも神様のおうちに行ってみないなぁ!○○ちゃんと○○くんと、あっ、パパも仲間に入れてね(笑)。

あのお空みたいなところにありそうだよね。明るくて、広くて。

おやつやおもちゃがいっぱいあって、公園もあって、セミさんが鳴いてたり、ネコさんがじゃれてきたりするだろうね、~」

ってね。


希望はいいものだよ。

たぶん最高のものだ。

いいものは決して滅びない。


        映画『ショーシャンクの空に』


ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]