陰口にはいつも卑怯さが含まれている。

陰口にはいつも卑怯さが含まれている。

その言葉をその本人の前で言えるか?

では、なぜ、本人の前で言えない本人のことを本人のいないところで、別の人物に言っているのか?

そこに愛からの理由があるのか?

なにか根回ししての、周囲に、本人に、自分に益する何かがあるのか?

それとも、ただ言いたいから言っているのか?自分の内でやりくりできない感情のうつ熱をガス抜きするために、人の心と時間を犠牲にさせて‥

陰口のみ言葉(=主イエスさま)とのそぐなわさに気付き始めた人たちにとっては、人の陰口を聴かされることは苦痛で不愉快なものです。その本人と会った時にぎこちない視線、所作になってしまいますし。


そのことに、なにか互いの人間関係を建設的に改善していく意図のない陰口は、ただの愚痴、自分個人の自己愛から出た排泄物にすぎない。


昔の人はすごいですよね、「噂」とはよく出来た漢字で、口に尊ぶと書く。当の本人がいないところでする、その人の話は、その人を尊ぶ事柄であるように。その人に面と向かってほめそやすことは、─これもまた、みことばが生活に馴染んできた人たちにとっては─減らしていきたい自己の因習。なぜなら、自分自身も面と向かってほめられたくないから。ほめられて増強するのは、古い肉、自分が毎晩、どうか滅ぼしてくださいと日々祈り求めている自分の古い蛇だから。


逆に、陰口でいうようなことは、本当は、本人の前でこそ言ってあげるなら、なんらかの意義があるかもしれない。

(もちろん、腹立ちや恨みからいうのは、陰口を言わずにおれない悪意がさらに強烈となって噴出し抑えきれなくなったもので、自己愛が理性を覆っていくベクトルとして同じ方向性のものだから、退けられるなくてはならない。)

そうではなく、自分も言いにくいし、できればそれを伝える役目はしたくないのだけれども、本人のため、周りの調和のために、自分のそういった保身を優先する性向を排してその人に言ってあげるというのであれば、ということ。

そういったことを一切しないで、その人のいないところで口にする陰口は、自分の苦痛で不快な状況も変わらないままだし、その話を聴かされる相手も、そしてなにより自分自身をも汚すだけで、本当に無駄で、マイナスな行為。


五つの誓い 

(「命の授業(腰塚勇人)」より) 


口は人を励ます言葉や 感謝の言葉を 言うために 使おう・・・ 

耳は人の言葉を 最後まで聴いて あげるために 使おう・・・ 

目は人の良いところを 見るために 使おう・・・ 

手足は人を助けるために 使おう・・・ 

心は人の痛みがわかるために 使おう・・・ 


私を助けてくれた人たちが してくれたことを 今度は私がしよう・・・



腰塚さんが顧問をしていたバスケ部の女の子たちは、練習の後、毎日泣いていたと。怒鳴り、手が飛びしていたしごきの練習。

自分の手を、自分の口を、自分で動かせなくなった時、腰塚さんは〈自分に与えられた自分の体〉を使うということ、〈自分にまかされた自分の心〉を使うということの、幸せの量り知れなさとと責任の重さを感じて、誓いを立てたのかもしれません。



もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

イザヤ書58:9,10


偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。

詩編35:19 ,20


心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

マタイ福音書12:34~37


口に入るものはその人を汚さず、口から出て来るものがその人を汚すのである。

マタイ福音書15:11 


馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。

同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。

舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

ヤコブの手紙3:3~12


人を量る量りで、あなた達も量りかえされるからである。

ルカ福音書6:38



つまらない言葉の一つ一つによって裁かれる?!

それらは、すなわち、わたしたちの全存在の結実だから。

舌は不義の世界!

どうしたら、悪そのものの自分自身から、そして、その表れの制御しがたい舌の罪から救われることができるのだろう!

そんなだったら私たちはどうしたらいいの‥?一生変われないの?滅びるしかないの?



わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

ヨハネ福音書14:13~14


あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

ヨハネ福音書16:24



「わたし(イエス)の名によって」ということは、主イエスの性質によって、主イエスの性質に肖(あやか)ろう、与(あずか)ろうとして、ということです。つまり、イエス様のように人を傷つけない者になりたい、人を汚さない者になりたいという願いで求める求めは叶えられる!そして、それが叶えられて、主から来る喜びで私たちの内が満ち満たされる!ということです。


その人がいないところで、その人のことを口にするとき、そのことをその人の前で言えるかどうか考えたい。そのようなことを自分が陰で言われたら、自分だったらどんな気持ちになるか考えたい。そして、それらの答えがNoならば、その話題を口にすることを潔く捨てていこう。1ミリでも主イエスの姿に近づこうとなんど倒れても、なんどつまづいても求めていこう。


ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]