もし明日交通事故で死んでもそれはそれでいいや、と思うのです。日々の生活で些細なことも馬鹿馬鹿しいような気がしてくるのです。

 永井隆博士の奥さんみどりさんが、博士が白血病で余命~年と博士自身から伝えられて、家を飛び出して、お御堂に行き、ようやくおうちに帰ってきたときに、永井博士に言ったみどり夫人の言葉、生きるも死ぬも主の栄光のためにね、ですね。 


 この世を通らずに天使になるのが御心であれば、陽の目を見る前に母の胎にいる間に天に戻されます。人類の4分の1は、主の摂理のうちに、そのようにして天に帰り、天界の天使たちと地獄の悪魔たちとの拮抗が保たれるようにバランスが保たれているとスエデンボルグは教えられたそうです。


私たちが母の胎を出て、成人になって後の今もとられずに世に置かれているのは、ひとつは私たちの魂の成長が不十分なため、もう一つは他の魂の救霊のためです。自分の子供に対しては絶対的な責任があります。そして、確かに、それに先立つ主の御心があります。


私はそのことを親しい人の前では口にしません。まだ理解してもらえないからです。そして、いまそれを口にするとその人はその人の価値観の中で悲しむし、不安がらせることになるからです。

言葉はそれをきく相手のためにあります。私の口から出る言葉であってもそうです。私の言葉は私のために口にされてはいけない。自分の命を愛するものはそれを失い、自分の命を憎むものはそれを得る、のです。 


 「わたしは先祖に優ったものではありません。主よ、私を取ってください」(列王記上19章)とは、私にとっても何度となく心から出てきた言葉ですが、一方で、いま天に帰ったからといって、自分の魂がどれほども成長していない、ということも自覚できているので、そのたびに、まだこの世にいなくてはならないのだと思い直させられるのです。 

 私たちは、それぞれ自分の所属する天の社会からこの世に送り出され、この世で魂が成長させられ、それをお土産にしてまた元いた自分の天界の社会に帰っていきます。天使たちは私たちがこの世の試練を乗り越えて、成長した魂となって戻ってくるのを熱望しています。かれらはもう苦しめない(この世の苦しみを受けて成長する機会がない)からです。 


 ものみの人々 雲のごとく むらがり囲みて われを眺む 

 わきめもふらずに 走りすすめ さかえをさずくる 主は呼びたもう

讃美歌370番

https://youtu.be/mhS0kXdzVYo 


イエス様の33年はどんなにつらい日々だったことでしょうね。 


 ことばは人となって、 私たちの間に住まわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 この方は恵みとまことに満ちておられた。 

 ヨハネ 1:14 


 いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。

 マタイ福音書17:17 


 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」‥イエスは答えて言われた。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」 

 ヨハネ12:27~32 


 さて、 過越の祭りの前に、 この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、 世にいる自分のものを愛されたイエスは、 その愛を極みまで示された。 

 ヨハネ13:1 


 イエス様は道ですから、私たち一人一人もそのような生涯であるべきです。 私が地上から挙げられるときには、わたしは私に連なる人たち(私たちが成長して帰天することを待望している天上の人たちと私たちの後に続く魂の弟妹たち)もを自分の所に引き寄せなくてはなりません。 

 ですから、一切の自我は罪です。生きることについて、死ぬことについて。 


 私たちの魂をほんとうに満たしてくれるものは主そのもの、主だけですが、その主への愛は、その先にある主が命を捨てても救おうとされた主の子供たちに向います。その魂たちは‘この世に’存在するのです。主を通して隣人を愛し、隣人たちの救霊のために心を用いるのが私たちがこの世で日々を過ごさせられている目的です。 


 私たちはこの世に何一つ持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもありません。」 

 テモテの手紙第一 6:7 


 愛する者たちよ。 あなたがたにお勧めします。 旅人であり寄留者であるあなたがたは、 たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 

 ペテロの手紙第一 2:11 


 しかし、 あなたがたは、 選ばれた種族、 王である祭司、 聖なる国民、 神の所有とされた民です。 それは、 あなたがたを、 やみの中から、 ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、 あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 あなたがたは、 以前は神の民ではなかったのに、 今は神の民であり、 以前はあわれみを受けない者であったのに、 今はあわれみを受けた者です。 

 ペテロの手紙第一 2:9-10 


 世をも、 世にあるものをも、 愛してはなりません。 もしだれでも世を愛しているなら、 その人のうちに御父を愛する愛はありません。 すべての世にあるもの、 すなわち、 肉の欲、 目の欲、 暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、 この世から出たものだからです。 世と世の欲は滅び去ります。 しかし、 神のみこころを行う者は、 いつまでもながらえます。 

 ヨハネの手紙第一 2:15-17 


 人の立てたすべての制度に、 主のゆえに従いなさい。 ‥というのは、 善を行って、 愚かな人々の無知の口を封じることは、 神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。 その自由を、 悪の口実に用いないで、 神の奴隷として用いなさい。 すべての人を敬いなさい。 兄弟たちを愛し、 神を恐れ、 王を尊びなさい。 人がもし、 不当な苦しみを受けながらも、 神の前における良心のゆえに、 悲しみをこらえるなら、 それは喜ばれることです。‥善を行っていて苦しみを受け、 それを耐え忍ぶとしたら、 それは、 神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、 実にそのためです。 キリストも、 あなたがたのために苦しみを受け、 その足跡に従うようにと、 あなたがたに模範を残されました。

 ペテロの手紙第一 2:13-21 


 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 

 へブル人への手紙11:8~16 



 福音書のほかに読むべきもの、詩編とイザヤ書40章以降でしょうか。 私が読むように言われたのは、 「私に啓示された福音」とスエデンボルグとシオンの啓示 の3つでした。 

 特に、スエデンボルグはなかなか読み進めなくて、いつもいつの間にか読まずに長い期間が過ぎてしまうのですが、そのたびに、また、「少しずつでいいから、1段落でもいいから読んでいくんだよ」と勧められました。それでこれまで計3回勧められたのです。  

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]