この神の接近は、まったく類いない奇跡であって、これに比べれば、他の奇跡は、ただ当たり前の、ほとんど自明なことのようにさえ思われる。

本当に神を信じる人びとは、がんらい普通の人とは異なった種類の人間であり、ときには世間にまじってみずから異様に感じることがある。


というのは、すでにキリストも言っているように、この本当の信仰は世間通常の信仰とはちがったものであって、「山を移す」(コリント人への第一の手紙一三の二)ばかりでなく、なお一層困難なことだが、人間の心や思想をも移すからである。


むろん、このような信仰は、神を愛する魂へ神が積極的に接近することなしには生じえない。この神の接近は、全くたぐいない奇跡であって、これにくらべれば、そこから生ずるすべての異常なはたらきや精神力は、ただあたりまえの、ほとんど自然なことのようにさえ思われる。


しかし、これらすべてのものは、かつて可能であったとすれば、今日もなお同様に可能であるにちがいない。そして、今われわれが待ち望んでいるのも、このような救いにほかならない。  


主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。       創世記49:18


イエスは答えて言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。

もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」 

 マタイによる福音書21:21,22 


ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』草間平作・大和邦太郎訳(岩波文庫) 6月3日 


変えられた人生

~メルマガ《携帯ディボーション L.i.C.》より~


僕はニューヨークでも名の知れた不良グループのサブ・リーダーでした。弱い者や傷ついた人たちを見ると殺したくなる一方、一人になると怖くなり、急にお母さんに会いたくなって泣き叫んだりしていました。  


そんなある日、僕たちは道でやせっぽちの男に出会いました。その人は僕たちに

「マンハッタンで暴力団のための集会をするから来てくれ」

と言うんです。僕は反対したけれど、仲間が行くというので仕方なく参加することにしました。 行ってみると、前の3列が僕たちのために取ってありました。

伝道者は、

「聖霊は心の内側まで入って来られ、聖めることができる、

 そして人を、赤ん坊のように新しく出発させてくれる」

と言いました。僕は聖霊がどういうものだかはわからなかったけれど、突然それがほしくてたまらなくなりました。

そして伝道者が

「祈ってほしい人は前に来てください」

と言ったとき、真っ先に前に走り出てひざまずき、

「イエス様。僕はこの町で一番汚い罪人です。

 どうか僕を変えてください」

と生まれて初めて祈ったのです。  


僕は自分に何が起こったのか全然わからなかったけれど、家に帰り、ドアを閉めた瞬間、あることに気がついてはっとしました。 

全然怖くないんです! 

自分を苦しめた孤独の恐怖がなくなっていました。それだけじゃなく、まるで母が帰って来て、そばにいてくれているような気がしました。

そして、僕はポケットの中にあったマリファナを引き裂くと、窓の外に投げ捨てたのです。  


次の日、道を歩いていると、小さな子どもたちが僕のところに駆け寄ってきました。以前はあり得なかったことでした。 前は、子どもたちは僕を見ると、みんな逃げて行きましたから。

僕はその子どもたちが愛しくて、どうしていいかわからない気持ちになり、ただ彼らを抱きしめました。涙が頬を伝わりました。

僕は、自分が変えられたことをそのときをわかったのです。 


しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力をうけます。  使徒行伝1:8



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ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]