凡てのものは、永遠に幸福な状態に向かって進んでおり、時の流れの中で何が起ころうと依然として永遠の幸福につながる
もう、投稿しませんと宣言しておきながら、今日いただいたメルマガ・信徒メモは保存しておきたくて、ここに収納させていただきます。この御言葉の並びはとても胸に迫ります。そして、最期の2つのスエデンボルグの言葉は書いて壁に貼っておいてもいい。
================= 信徒メモ 第285号 2017.03.04===============
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「信仰と希望と愛」 鳥田牧師(830102-説教)
▼コリント人への手紙(一)13:1~13
たといわたしが、人々の言葉や御使た ちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がし い鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆ る奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰が あっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたし が自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡し ても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらな い、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、 恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべて を忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、 知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分で あり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子ら しく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、お となとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、 今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎ ない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、 この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
(協会口語訳) === 関連箇所(協会口語訳聖書-1954/1955年版)
▽ガラテヤ人への手紙5:6~
キリスト・イエスにあっては、割礼があって もなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 (中略)
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るた めである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛 せよ」というこの一句に尽きるからである。
▽テモテへの手紙(二)4:6
わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、 走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。
かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望ん でいたすべての人にも授けて下さるであろう。
クリスチャンではない方から「沈黙はぜひ見ないとだめ」と勧められました。
その方が映画館で見たとき、映画本編が終わり、エンディングが終わってしまっても、しばらく誰も立ち上がらなかったそうです──
▽ルカ福音書17:9~
僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼 に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してし まったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎませ ん』と言いなさい」。
▽ヨハネ福音書21:17~
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモ ンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてを ご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。 イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。(中略)
ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、 あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。ペテロはこ の弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っている ことを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
▽ヨハネの黙示録14:1
なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオ ンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に 小羊の名とその父の名とが書かれていた。(中略)
彼らは、女にふれたこ とのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、 どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷の ない者であった。
=== スウェデンボルグ著/SK編:
▼天界の秘義10143:5
主の戒めに従って行うことが真に主を礼拝 することである、否それが真の愛であり、また真の信仰であり、そのことは 何ぴとでもその事柄を考察するならば認めることができよう。何故なら、誰かを愛し誰かを信じている者にとっては、その相手の者が願いもし、考えも していることを願って、行うにまさって楽しいものはないからである。
▼天界の秘義9974
自分が行う善行によって自分は天界に入るに値 すると信じる者たちは、自らのものによって善行を為す者たちであって、主 から受けて善行を為す者ではない。
▼天界の秘義9975
人が自らものによって行う善行はすべて、善で はない。なぜなら、それらの善行は報いのために為すものであるから、自分 のために為されるものであり、したがって、それらの善行で自分自身を第一 に重んじているからである。これに反し、人が主から受けて行う善行はすべ て善である。なぜなら、それらは主や隣人のために行われるものであり、し たがって、それらの善行では主と隣人とが第一に重んじられているからであ る。
▼天界の秘義8478
神に信頼している人たちは、明日のために心づかいはするが心労はしない。ましてや不安などは持たない。望んでいるものを得ようが、得まいが心は穏やかである。自分に割り当てられた境遇に満足している。
金持ちになっても富に心を置かない。名誉ある地位にあげられて も自分自身を他の人より価値ある者とはみなさない。貧乏になったからといって、悲しまない。境遇がひくくても気落ちしない。
神に信頼している者には、 凡てのものは、永遠に幸福な状態に向かって進んでおり、時の流れの中で何が起ころうと依然として永遠の幸福につながるものであることを知っている。
▼天界の秘義6303
主がだれかと共におられる時は、その人に起こ る事物はすべて、それが悲しいものであれ、喜ばしいものであれ、その人の 益になるように主が配慮される。
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「たとえあの人が沈黙していたとしても、
わたしの今日までの人生が、あの人について語っていた」
『沈黙』遠藤周作
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