「我山に向いて目を挙ぐ」も祈りであってくれ
われ、山にむかいて、目を挙ぐ。わが助けはいづこよりきたるや…
《コメント》
恐れないで
ですよねこの聖歌
大好きですこの曲(⌒-⌒)
太宰はちょくちょく 聖書のみ言葉を彼なりに 解釈というか求めて 書いていましたね
私はタイトルは忘れましたが
「門をたたけさらば開かれん」
の聖句を太宰風に書いていた ものをみつけて
1人暮らしの アパートのドアにその言葉を
貼っていたことを思い出しました
でも太宰は自殺してしまいましたね
私は自殺できなくてよかったと
今は本当に感謝してます
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《返事》
わたしも太宰治の影響は中学生くらいから受けて、当時、続けて読みました。
その頃は作家になり切れない作家と、偉そうに評してましたが、
2年前、太宰治さん(ここから、気持ち的に「さん」付けしたくなります)が、
幼少期に性的虐待のトラウマを抱えて、
自死を遂げるまでの生涯、苛まされた抑鬱の波が、天賦の文才と相まって
あのような作品、あのような人生となったのを知るにつけ、
せっかく聖書に触れて、そこに救いを求めようとした刹那もあったのに、
彼の適切な導き手になる主の僕が誰もいなかったのか
と遣り切れなくなるのです‥
「太宰治=堕罪-治む」
と指摘したのは、なんと三浦綾子さんなのでした。
この投稿の本文では、あのような文章にしたのですが、
私は、
「我山に向いて目を挙ぐ」
の1句をかぎりを掲げた太宰治さんの思いをも、
イエスさまは彼の祈りとして嘉してくださっているのではないだろうか、
そうしてほしい、
ぜひそうしてほしい
と思うのです。
こう本文で書いて、
自分の自殺願望を肯定しているように取り違える方がいたらいけないので、
書きませんでした。
最期まで、私たちの内に吹き込まれる死へのベクトル(タナトス)には抵抗しなければいけません。 そして、
「人を罪に定めてはいけない」
との主のことばがありますので、
死後の主の裁定については言及しないことが私たちのとるべき姿と思い、
揺れる心を主の前に差し出しています。
あなたが自殺できないでくれてよかったです。
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