「こころよ」と尋ねていますが、どうしても「イエスさま」と呼びかけずにおれないときがあるのですが‥?
‥こころの答え、恐るべしです。本当に何でも知っています。ただ、「こころよ」と尋ねるのが原則と大嶋先生は仰られていて、そうしてはいますが、どうしても祈るとき「イエスさま」と語らずには祈られないときがあるので、そのとき支配者と繋がらないのか? そこのところが今疑問に思っているところです。
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大嶋先生は虚無なのです(言ってしまった‥)。光にとってはまた別の真理があります。私たちは「イエスさま」で間違いありません。虚無の人たちのように、「心よ」に留まる必要はなく(また、それで満足できることもなく)、「イエスさま」と使い分けて、やがて「イエスさま」だけになって行けばいいのです。それは、日々主に祈り、主のみ旨を尋ねながらも、生活の中では人とも交流したり、相談したり、尋ねたり、お願いしたりしている今の生活と変わりません。
(すこし、ここの話とそれますが、病気になって病院に行ってもいいのです。ただ、その前に、主よ導いてください、とそのすべての行為に祈りを先行させ、祈りと共になすのであれば。)
「こころよ」と呼びかけていても、支配者にすり替わられることはあります。そんなときは、こころからの答えがだめだしばかりになって、自分の思いが縛り付けられ、重くなり、自分らしく気持ちを保てなくなっていくことで、それに気付けます。大嶋先生の場合は虚無でもありますし、祖父が牧師で、キリスト教徒の家庭で育ったので、「主よ」と祈るとどうしても、信者たちから「主牧」と呼ばれていた祖父のマインドとつながってしまうと書かれていました。それはちょっと大嶋先生の特殊な養育環境に影響されています。ヒルティが、養育期における父親の厳しくいかめしいイメージが、「父なる神」という聖書が示す神から受ける人々の神に抱くイメージをゆがめてしまっていると語っていましたが、それぞれの家庭や文化によってその言葉が、自分を自分らしく自由にするものとして働くか、自分を支配するものの支配を強める方向に働くかが変わってくることがあります。
大嶋先生のセラピーでは、支配者の支配から解放されていくために、「こころよ」と呼びかけて、こころとつながっていきます。あなたも実際、その効果を体験されているのですが、そこで、「祈るとき「イエスさま」と語らずには祈られないときがあるので、そのとき支配者と繋がらないのか?」と心配されていますが、私の経験では、むしろ、「イエスさま」との呼びかけの方が、「心よ」との呼びかけ方よりも、はるかに「支配者」が入る可能性が少なくなります。イエスの名は九字切りよりも強烈に他の霊体より私たちを守ります。
しかし、それも100%ではありません。なぜなら、幾多の惑わしの霊があり、また信仰の暗夜があり、しかも、それらは私たちの魂の成長に、より親密な主との関係に必須の訓練でもあるからです。
↑ リニューアルされて出版されていたのですね。必読書です。
イエスさまからの声はいつも悔い改めの祈りと共に聴く必要があります。ほんとうにこれはあなたからのものですか?と確かめながら。そして、イエスさまからの声は必ずみ言葉に合致したものです。それは、世の喧騒と荒れ狂う自己愛が鎮められた後に響いてくる小さき細き御声です。
主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
列王記 第一 19章11節〜12節
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