聖なるものを犬にやってはいけません。また真珠を豚に投げてはいけません。

数年前に一度教会に足を運び、そこで的外れな言葉で皆の前で紹介された人から、いろいろな思いや葛藤や導きの中で、教会でいろいろなことがありながらも、信仰を続けている友人に、「~な宗教なのに、なんで、キリスト教を信仰するのですか」と問いかけるメールがあって、どんなふうにこたえていいかなぁと、相談を受けました。わたしの答えは次のような文章になりました。


「‥その人の一つの体験で、一つの思い込み「~する」宗教という命題から、「なんで」と言われても答えようがないのではないでしょうか。そして、答える気持ちにもなれないのではないでしょうか?(未熟な私はそうです) 。ここでも、マタイ福音書の主のことばが導きになります、 「 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:6) この主のみ言葉は、信仰の道を歩むとき、さまざまな場面で私たちを守ってくれる言葉です。


と、こんなことを昨日メールしたら、今日、次のようなことをヒルティが語っていました。


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9月2日  

わたしの人生経験にしたがえば、たいていの病気は、道徳的欠陥の共同作用がなければ起らない。それどころか、実に多くの神経病や初期の精神病においては、これはほとんど例外のない通則である。しかし、病気の起る原因がとりのぞかれることはごくまれであり、それどころか、病因が十分に究められさえしないことが多い。  

そこで、多くの病人はいくつもの病院を訪ね、さまざまな治療を受けながら、半生もしくば全生涯をだらだらと過ごし、そのためにしだいに頭が鈍くなるか、なお一層悪いのは、つぎつぎに自分勝手な病気を考え出しては医者の炯眼をためしたりして、一時の満足をおぼえることだ。ときたま、ブルームハルトやヴィーニュやクナイプのよな、万病をなおす奇跡を行う人の噂を聞くと、こういうその時かぎりの治療所に幾千人もが押しよせる。だが、しばらくたつと病気は元のままというのが普通である。  

特に神経の病気においては、最上の治療が行われるのは、患者が本当に強いまことの信仰と、治ったら自分の生命をこれまでよりも立派に使いたいという断固とした決心とを抱いて、実際に親切な気高い心の医師のもとを訪れる場合である。  



この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 

マタイによる福音書9:21、22


イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

マルコによる福音書9:23、24


その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 

ヨハネによる福音書5:14。


しかし、それが行われない時には、


「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれを足でふみつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」

マタイによる福音書7:6

の厳しい言葉や、


「わたしに従ってきなさい。その死人を葬ることは死人に任せておくがよい。」

マタイによる福音書8:22


のいましめが、同じようにぴったり適中することもまれでない。  

現代は、このような悲惨がひどくなっている。しかも、これを正しく判断し治療しうるような本当の働き人が、今もあまり多いとはいえない。


(9:35そこでイエスは、すべての町と村とをめぐり歩いて、彼らの会堂で教え続け、王国の福音を宣べ伝えつつ、すべての病とすべての患いを癒し続けた。)

さて、彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。それから彼は、その弟子たちに言う、「収穫は多いが、働き人が少ない。だからあなたたちは、収穫の主(ぬし)に願って、その収穫のために働き人たちを出してもらうがよい」。

マタイによる福音書9:36~38


同胞教会讃美歌676番。 

次の言葉は、あるシナの著者が言ったものだが、どの病院にも当てはまるだろう。


「とりわけ必要なものは、愛の心だ! 

無理に押さえつけるな、ぶちこわすな。……

他の人びとをふみつけて、得意になるな。

――むしろ、悩める人たちに慰めと助けとを与えよ。」 


ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫 


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子供の病の場合は、本人そのものに責任を負わされるような道徳的欠陥が生じようもないので、往々にして、大人の罪を負わされて、場合によっては、大人から罪悪感を抱かされてのことが多いのではないかと思います。逆に、大人の場合は、だれしも、多かれ少なかれ、何らかの道徳的な葛藤を抱いている存在なので、そして病の重い軽いの違いはあっても、病が、自身の内面を見つめなおし、主に近づく機会として活かしていけるのでしょう。

「親切な気高い心の医師」を目指して、1ミリでも近づけるよう、まずは私自身が悔い改めて、「本当に強いまことの信仰と、治ったら自分の生命をこれまでよりも立派に使いたいという断固とした決心とを抱いて」祈り続けねばなりません。この意味でも wounded healer です。

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]