これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。

大丈夫だと思いますが、前回の文章「ほんとうに神さまによって立てられた教会であれば、献金の押し付けはしません。」について、念のため、補足させていただきますと、私は什一献金をないがしろにしてよいと言っているわけではありません。 


「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」

(マタイ福音書23:23)


とイエスさまも仰っておられる通り、「他のほう」什一の献げ物もおろそかにしてはいけないのは、当然のことです。しかし、それは自発的な決心のはずです。 自ら、聖書の教えを受け入れて洗礼を受けるに際しては、その教えを実生活でも受け入れていくことができるか吟味しなくてはなりません。


 でも、洗礼前の求道者に、あるいは、洗礼を受けていても、受給費でキリキリいっぱいで生活している人に、教条的に、自身はその人の実情を理解しようともせず、なんの援助することもなしに、自分自身でもできないような什一献金を強要するのは、イエスさまに倣う行為といえるのでしょうか?ということでした。 働いて貯蓄や小遣いが取り分けられる人がする十分の一と貯金や小遣いなどほど遠く、無駄遣いもしていないのに、ギリギリ切り詰めてやっとひと月生活をしている人とでは違うでしょ、と。

月10万円に満たない生活費から、光熱費・食費までも切り詰め、月末には食べるものが無くなる覚悟で、天の父が養い給う信仰にかけて、その十分の一を捧げるということも尊いことでしょう。しかし、それは、それこそ、ジョージ・ミュラー、ハドソン・テーラーばりの命を懸けた信仰の人生です。それを、献金の訴えにおいて、明白にそれに見合わない不信仰のうちに生きている教会の上層部を占める先輩信者方が、自分たちもまだ果たせていない捨て身の信仰を、教会に救いを求めて来てこれから信仰の道を歩んでいこうという後輩信者たちに神の名の下にけしかけるというのはおかしいのではないですか、ということだったのでした。


ヒルティ喫茶:虹息

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