ほんとうに神さまによって立てられた教会であれば、献金の押し付けはしません。
洗礼できなくても献金少なくて、イエスさまにすがるだけの私もクリスチャンでいいんですね。なんか私が礼拝しようとする教会はどこも献金のことを言われてしまいます。そうなんです。私が洗礼を受けなきゃと思ったは、死んだあとみ国に行けなくなるかもと心配になったからなんです。でも日曜日はお財布からいつも
100円玉を缶に入れて献金してます。今までは100円も大金だったけど、生活が落ち着いてきたので
その感謝の気持ちでもあります。
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ほんとうに神さまによって立てられた(運営された)教会であれば、献金の押し付けはしません。 聖書に、神のみに期待せよと書いてあるからです。
でも、日本中の教会のほとんどは、献金せよ、献金せよと言います。月定献金、クリスマス献金、会堂献金、盛夏献金、年末献金‥ 聖書の言葉一つに立っていないのです。
私たちの牧師は、献金について言いません。どんなに困った時でもイエスさまのみに頼ります。そして、半世紀、借金せずに、教会が立っています。貧しくありません。イエスさまは、弱い私たちを憐れんで豊かに答えてくれました。イエスさまは幼子のように信頼して、イエスさまにだけ己が心を捧げている人をないがしろにされません。木を植えられた方は、木に水も与えられます、与え続けられます。でないとせっかくご自身で植えた木が枯れちゃいます。 そんなことってありえますか?
その証し人として、 ジョージ・ミュラー
そして、ジョージ・ミュラーを己が範として中国伝道に人生を捧げたハドソン・テーラー
がいます。
かれらが特異なのではありません。聖書のあちこちに書いてあるのです。
ソドムの町に、外敵が現れ、ロトや多くの住人を含め、一切の金品、家畜などが略奪されます。 その情報を聞いたアブラハムは、同盟主たちと共に奪還作戦を敢行し、そのすべてを取り戻したのです。 アブラハムは、戦いの勝利を神に祝し、祭祀王メルキゼテクに対して、自身の財産の1/10を捧げたのでした。 それを見ていたソドムの王は、アブラハムに、 「人は私にお返しください。しかし、財産はお取りください」と言いました。 しかし、アブラハムはソドムの王に言います。
「私は、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴紐一本でも、決していただきません。 “アブラハムを祝福したのは、この私だ”と、あなたに言われたくありません」
(創世記14:22~23) 上記事はFB山本誠一氏がまとめてくれた文章より。
「あなたがたは鼻から息の出入りする人にたよることをやめよ このような者はなんの価値があろうか」
(イザヤ書2章22節)
そして、あなたの大好きなマタイによる福音書にはたくさんまとめて書かれていますよ。
「空の鳥を見なさい。 種蒔きもせず, 刈り入れもせず, 倉に納めることもしません。 けれども, あなたがたの天の父が これを養っていてくださるのです。 あなたがたは, 鳥よりも, もっとすぐれたものではありませんか。」
(マタイ6:26)
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」
(マラキ3:8~10)
十分の一献金を、キリキリいっぱいで生活して、これからキリスト教のことについて学んでいこうとしているあなたに、憐れみなく杓子定規に強要する牧師や先輩信者は、その什一献金で言われた上掲の主のことばを守れていませんし、イエスさまがどんなに憐み深い方か知っていません。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」
マタイ福音書12:7、8
イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
マルコ福音書12:24
主は、まず、先に信仰の道を歩んでいる兄姉たちに、あなたが私だけに従うことを目指しなさい、自分たちの不安のため、狭量のため、人にあなたの考えを強要してはなりませんと仰っているはずです。
「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
(マタイ7:3~5)
聖書に書いてあることは、教会の無慈悲な、自分もできないようなことをあなたを責めて、強要する人たちの言っている事とは正反対です。きっと、いま声高に何が何でも什一献金と言っている人は、あなたの今の経済状況と同じになったときに、什一献金絶対にしませんよ。なぜそう言えるかというと、人のことをとやかく言える人は、悔い改めていないから言えるので、悔い改めの生活がなければ、天の光は射してこず、決して自分の真の姿に、その弱さ、その無力さに気付くことはできないですから(だから、憐みよりも生贄を好むのです)。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。」
マタイ福音書23:29~31
本当は、まず自分たちが模範を示し、生活を通して証しをすべきでしょう。あなたには何も言わずに、祈って見守り、裁きではなく、「大丈夫ですよ」と励まし立ち上がらせる作用をしながら。
「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。 」
マタイ福音書23:4~5
ありていに言うならば、彼らのうちの誰か一人でも、そっと生活費にと2、3万円、手渡してくれたなら、あなただって1割の献金が可能になるじゃないですか(後述のⅠテモテ6:17~19)。それがためらわれるのであれば、なにも口にしないことです。
「献金強要教会」の人たちが(ほとんどすべての教会ですが)、根拠にするのは使徒の手紙です。そこには献金の勧めが書いてあり、聖書にはかなりの割合(新約聖書の5分の1以上だったかな)が献金の勧めに充てられていると言って、公然と、恥じることも躊躇うこともなく献金を勧め、脅し、強要します。イエスさまの言葉より、使徒の言葉を上に置いているのです。 使徒たちの手紙は参考になり、励ましになるところもありますが、イエスさまの言葉を否認し、まるで存在していないかのようにして規律の根拠として使ってはいけないでしょう。
「また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」」
(マルコ7:9)
「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」 ‥ そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
マタイ福音書15:7~14
使徒も弱い人間で、一応、聖書の中に含まれていますが、マネしてはいけないところ、その教えを真に受けてはいけないところも多々あります。真理そのもののキリストの言葉と同列にはなりえません。
Yahoo知恵袋に見つけました。i_ki_te_ru_da_ke_de_marumoukeさん、よく聖書を読まれて、教会の「什一打品(ダシナ)主義」と名付けて、取り上げておられます。
「あなたがたの地の実りを刈入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である」 (レビ記19:9~10)
聖書には、お金の出せる人が貧しい人を助けてあげなさい、と勧めているのであって、-これは使徒の手紙でもそうです(Ⅰテモテ6:17~19)-それもなしに、貧しい人に什一献金、什一献金と律法主義で強要するように書かれてはいません。
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」
(Ⅰテモテ6:17~19)
逆に、富める人たちは什一で義務を果たしたと、それをもうこれ以上施しをしないことの免罪符にしてはいけないのです。み言葉が言っているのはその人の動機、心、本質的な善のことだから。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
Ⅰコリント13:3
あなたの出される100円の献金は、ほかの模範の信者然としてあなたを責めている人たちのどの献金よりも、イエスさまは尊いものとして受け取り、祝福されていますよ。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ルカ18:9~14
「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」」
ルカ21:1~4
上の箇所について、キリスト教会の説教でも、こんな説教がありました!レプタ銅貨2つってちょうど100円くらいなんだって!
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