まことの愛は隣人をその人自身において愛するのでなくて、神において愛する。

11月8日  神への愛は他のすべての愛を 


ジェノヴァのカタリナは、正当にも神にこう尋ねた、

「神への愛は他のすべての愛をしりぞけますが、

 それでもわたしたちは隣人を愛さなくてはならないのでしょうか」

と。

これに対して彼女はつぎのような返事をうけとった、

「わたしを愛する者は、わたしが愛するすべてのものをも愛する。

 あなたは、できるだけ隣人の霊と肉の幸福を増そうと心がけねばならない。

 まことの愛は隣人をその人自身において愛するのでなくて、神において愛する。」  

この方が、隣人にとっても具合がよい。

というのは、隣人を彼自身のために愛する愛は、ともするとそれに特有な動揺をともない、いずれにしても神においてその人を愛する愛ほど、不変でも、確かでもないからである。 

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫


11月8日にこのヒルティの言葉を読んでから2日後、『スエデンボルグの著作から集めた冥想の糧 メディテーション1』で次のような言葉に当たりました(こちらもほぼ毎日1ページ読むようにしています)。


天界で主を愛するということは、主を人物として愛するのではなく〈主から出る善〉を愛することです。善を愛することは、愛から出発して善を欲し、これを実行することです。

また隣人を愛するとは、友をその人物から愛するのではなく、〈みことば〉から来る真理を愛し、真理を欲し、これを実行することです。

したがって、以上、二種類の愛は、善と真理との相違から来ていると同時に、善と真理との結合も表しています。ただし、愛とは、善とは、また隣人とはなんであるか知らない人には分かりにくいことです。

『天界と地獄』15


その前のページには、『真のキリスト教』から、次のような言葉が載せられています。


善こそ、隣人である(訳注:もっとも近い人)と言えるわけは、善は意思に属し、意思は〈人の生命の本質〉だからです。〈理性のもつ真理〉もまた隣人ですが、ただそれは、その真理が〈意思の持つ善〉から出たものに限られます。〈意思のもつ善〉が〈かたち〉をなすのは、理性の中です。そして、理性の光の下で、見えるものになります。

善こそ隣人であることは、あらゆる経験から明らかです。誰かが人を愛するとすれば、その人の意思と理性の性質から、つまり、その人の内にある〈善性と正しさ〉から愛するのではないでしょうか。‥

善のために善を愛し、真理のために真理を愛する人は優れた隣人愛をもっています。なぜなら、その人は〈善そのもの・真理そのもの〉である主を愛していることになるからです。それ以外には、善の愛・真理の愛・隣人愛はありません。隣人愛が天界の起源になって形成されるのもそのためです。善と言っても役立ちと言っても同じことです。

だから、役立つことをすれば、善を行っていることになります。すなわち、善の内に役立つものが量質ともに備わっていれば、それだけ〈善らしい善〉になります。

『真のキリスト教』418、419


あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。

マタイ福音書23:8~10


わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ福音書13~15、34


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