神はそのような時、人間の心の最も奥深いところで、最も近く現存し支えておられます。
日々の仕事の中で、お客さんの訴えを親切に聞くことが出来ず、丁寧な説明や優しい一言をかける余裕もありません。 ただ職責から最低限の仕事をやっているだけの状態です。 正直なところ、お客さんのことなどどうでもよいと思うことが多くなり、 このまま今の仕事でお客さんと向き合い続ける自信も気力も無くなってきました。しかし、今の仕事以外、あてもないので、生活のためになんとか踏ん張りたいと思います。 忍耐をもって祈り続けながら、まずは春まで耐え抜きたいです。
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メールを読みながら、今日読んだ『メディテーション1』の文章を思い出していました(ほんとにこういうシンクロニシティはよくあることです)。
「‘義認’された以上、自分の中には悪は存在しない、悪は完全に拭い去られ、自分は清くなったと思い込んでいる人(信仰のみによる救いを固く信じるプロテスタント信者のこと)がいます。彼らに対し何千もの理由を見せられます。つまり、
・拭い去られたり、消されたりするものは何もないこと、
・悪は背後に退いただけで、主によって善の中に保たれているに過ぎないこと
です。ただし、これは、この世にいたときの善の〈いのち〉から、以上が可能であった人について言えます。
ところで、自分には悪以外の何ものでもなく、汚らわしい悪の堆積物であることを経験で悟ったとしても、自分についての思い込みから離れられない人がいます。 自分自身の中に地獄があることを感知する状態に入れられる時、また、救われることさえおぼつかないという絶望状態に至る時、その時初めて、思い込みが壊されます。それと共に、誇りや、自分に比べて他者を軽蔑する思いや、救われるのは自分だけだという思い上りが打ち砕かれます。
その時、
・すべての善は主に由来するということ、また、
・すべては主のおん憐みによる
という信仰を、本当に告白するようになります。また、主のみ前に心からの謙虚さを得るようになります。これは、自分自身の本当の姿が分からない限り不可能なことです。
ここで今はっきりすることは、自己改革に入り、霊的になる場合に、前述のように荒廃や寂寥の状態になぜ入れられるかです。絶望にまで至った時、初めて、主からの慰めと助けを得ます。」
『天界の秘儀』2694 (4)
私たちの実態は悪魔以外の何物でもないので、「お客さんのことなどどうでもよい」と思っているに決まっています。何をいまさら。まだ、自分が何かしら天使らしい心、人の子らしいところがあるとでも勘違いしたままでいたのではないですか。まだ、何かしら、自分の内に善いものがあると期待するものがあるから、実態が見せられた時に大きく落ち込むのです。
職責から最低限の仕事をしているのだったら大したものです、過ぎたることをしています。主に感謝するばかりです。
最近読んだ『メディテーション1』には、また次のような文章も出てきます。
「信仰生活を送っている者は毎日悔い改めます。なぜなら、自分にある悪を反省し、それを確認し、それを避けたいと思い、主に御助けを祈っているからです。
人は絶えず、自分の状態から落ちますが、主によって絶えず引き上げられます。悪を行いたいと思う時、自分の状態から落ち、悪を避ける時、主によって引き上げられ、悪を行わないで済むわけです。
以上のような状態は、善の中に在るすべてに該当します。悪の中に在るものも絶えず落ち、主によって絶えず引き上げられますが、これは本人が自らの傾向で突き進んで、最悪の地獄に落ちないよう、つまり、やや軽い地獄に行けるように、主によって引き上げられているのです。」
『天界の秘儀』8391
「ただ、次のことを知らなくてはなりません。 善の中に在りながら、善の中にはないと思っている人と、善の中にないのに善の中に在ると思っている人がいます。 善の中に在りながら全の中にはないと思っている人とは、人が自分について反省する時、自分の所属している社会の天使たちが、善を自分の功績にしないよう、当人が善の中にはないことを仄めかします。そうしないと自分の手柄の方に考えを逸(そ)らせ、他の人より自分が優れていると思い、誘惑に陥ることになるからです。」
『天界の秘儀』2384 (4)
自分の内に何の善いものも見いだせず、悪しか見せられないのは、間違えのない天に導かれている証拠です。気落ちすることはありません。あなたは幸いです。
「主が天地を支配しておられるということは永遠の真理です。なお、
・主以外には自らの力で生きている者はいないこと、
・したがって、〈いのち〉はすべて主から流れてくること、
・すなわち、〈いのち〉の善は主から、〈いのち〉の悪は地獄から流れてくること
も永遠の真理で、これこそ、天界の信仰です。
人が善の中に在り、このような信仰を維持している場合、悪がその人に結ばれることも同化されることもありません。悪は自分に由来するのでなく、地獄に由来するのを知っているからです。人がこのような心の状態にあるとき、平和が与えられます。
なぜなら、本人は主だけに信頼しているからです。仁愛に根差してこのような信仰にある人だけに平和が与えられます。 それ以外の人たちは、たえず、心労や欲望に翻弄され、そこから不安が生じます。自分のことは自分なりにやれると思う霊たちがいて、以上のようにすると自分の意思を失うばかりか、自由とその〈よろこび〉、あらゆる〈いのち〉やうれしさも失われると考えますが、その霊たちは実情を知らないからそう思うのです。 したがって、主に導かれている人は、自由そのもので、喜びと至福の中に在ります。」
『天界の秘義』6324
「‥主がこの世で耐えられた最後の試練で、その試練を通して〈つながり〉が生まれました。人間も神から見捨てられることはありませんが、外見上、自分一人で戦っているような気がします。しかし、神はそのような時、人間の心の最も奥深いところで、最も近く現存し支えておられます。
人が誘惑に勝つとき、心の内奥部で神と結ばれます。それは、主がご自身の御父と、誘惑に勝つたびに、内奥部で結ばれたのと同じです。」
『真のキリスト教』126
このことを覚え、今日も祈っていきましょう。
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