御言葉を持たない人に、真の意味での試練・誘惑はない。
今日読んだスエデンボルグの著作からです。
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試練・誘惑は、遠い原因と近い原因がなければ起こるはずはありません。
近い原因となるのは、人に宿る悪と偽りで、これが本人を試練・誘惑に誘い込みます。さらに、それを吹き込むのが悪霊で悪鬼です。
ただし、良心を持っていなければ、だれも誘惑されることはないし、ある種の霊的試練・誘惑を耐えることはあり得ません。霊的試練・誘惑とは良心の呵責拷問です。
したがって、天的・霊的善の中にいる人だけが、試練・誘惑を受けることになります。なぜなら、良心があるからです。それ以外の人には、良心はなく、良心がなにかもわかりません。
2)良心とは、主の御力による新しい意思と新し理性です。しかもそれは人における主の御臨在です。
人は善と真理との情愛の中に居ればいるほど、主は近く臨在されます。主の御臨在が人が善と真理の情愛の中にいる程度以上になると、試練・誘惑の中に入ります。人に備わる悪と偽りは、本人にある善と真理によって制御されながらも、より近い現存には耐えられないからです。
『天界の秘儀』4299
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