この世では苦難と悲惨を耐え忍び続けるしかないのでしょうか。
「キリストにならいて」を読んで、いくつかお聞きしたいことがあります。 この世には苦難と悲惨しかないのでしょうか。 この世にあるはずもないのに、悩みのない平穏な生活を探し求めていること自体、間違っているのではと思えてきました。 高い天界に召されるための修行として、 この世では苦難と悲惨を耐え忍び続けるしかないのでしょうか。 もしそうならば、はやく天に召されるように祈りたくなります。 毎日悔い改めていると、自分を否定し続けて、自信を失っていきます。 こんな弱い私でも耐えられるように悔い改めるコツはあるのでしょうか。
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。 そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。 どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
詩編90編10~17
いまあなたが感じている思いを2600年前に生きた神の人モーセも抱き嘆いています。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。 主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
詩編127:1,2
とも。 ヒルティから先に勧めたのには意味があります。『キリストに倣いて』は優れて、私たちのキリストを目指し天翔ける思いを鼓舞する書物ですが、まだ時代が浅く、純粋な叡智というにはまだ何重にも膜が掛かって、光が漏れ来るようです。 それが、スエデンボルグ、現代ときて、俄然、膜が外され、透明な光が私たちにまで届くようになりました。 難行苦行しないと人は救われないのか、迫害に合い殉教しないと天のいと高きに昇れないのか? というのは私の切実な問でした。 まずスエデンボルグが答えてくれました。難行苦行や慈善行為などしなくてもよい。あなたに与えられた社会での役割を誠実に勤めることがすなわち愛の業であると。なぜならば、それが社会への役立ちとなり、私たちに関わる人たちの福利につながっていくのだから。と。 そして、極めつけは主の祈りでした。 「試みに遭わせないで、この悪から救ってくださいと祈りなさい。」 とイエスさまご自身が仰っていました!このことに目が開かれた時の安堵。
ヒルティにしても聖書にしても、なお、試練がなくては、苦しみがなくては魂は成長していかないとの教えがされていますが、聖書は言います。自ら進んで日々悔い改めて、主のものを受けようとする人に、あなたがたの前に預言者として立てられた者の受けた以上の試練はやってこない。その前に、主イエスさまの大きな十字架があり、私たちの負う十字架はその千分の一以下だそうです。十字架とは自分の罪を見るみじめさとそれを変えていただくためにする祈りの忍耐のことです。 試練はありますが、世の人に比べて大きなものではなく、ヒルティが既に証ししているように、はるかに安全で、しかもいつも慰めと励ましが与えられる上質の人生行路が繰り広げられていきます。もし、そうでないなら、なにか、それを妨げる要因があるのです。そして、それは神ではなく、避けることのできない人の定めでもなく、私たちの方にあります。
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、 あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
イザヤ書59:1,2
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。 「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 あなたは知らないのか。聞いていないのか。 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ書40:27~31
約束は、主メシアの到来する前、ご自身を人類に表された当初から変わりません。
見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。 あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。
申命記11:26~32
申命記28章の契約は今も厳然と履行され続けています。
主の御声に聞き従い、その戒めを守るなら祝福の嵐、幾重もの祝福と守りに取り囲まれた人生です。 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
この特別の祝福と厚い天の守りについては詩編91篇にも力強く謳われています。冒頭の90編の後にこの詩が91編として置かれているのも主の深い憐みの現れですね。 そして、申命記では、祝福の約束のその後に、主の御声に従わず、その戒めを守らないものへの相次ぐ呪いも予告されています。
もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。あなたは、目に見ることで気を狂わされる。主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。 彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。 主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。
主を拒み、主を捨てたイスラエルの民には、字義通り、このようなことが民に降りかかりました。 このような真反対の祝福と呪いに私たちの運命を分けるものは「主に従い、戒めを守る」かどうかなのですが、私たちが実際にしなさいと言われていることは難しいものではありません。悔い改めて福音を信じること、日々、示される自分の罪を主の前に置いて時間を差し出すこと、すなわち念祷、これだけです。これ以上の善行はできませんし、求められてもいません。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
詩編32編
さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。 きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。 「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」 と。それゆえ、わたしは怒って誓った。 「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」 と。
詩編95編
悩みのない人生は、実際あり得ません。「あなたがたは、この世ではなやみがあります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)とイエスさまご自身が仰いました。同じところで「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためです。」「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」とも仰っています。 悩みがなければ、あなたはヒルティの言葉を読み、聖書を開き、教会の教えに耳を傾けましたか?教会に行きたいと強く思ったのはどんな状況の時でしたか、そしてその思いが薄らいだのはどんな状況になったときですか? 私たちはみな安きに流れ、自分の生まれながらの馴染んだ命から、自分からは成長しようとはしません。「古いぶどう酒を飲んだ者は古いものはよいという」のです。試練が来るとき、初めて求め始めます。そしてまた試練が緩められると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」よろしく、成長の道から離れていきます。この繰り返しがたいがいの人生です。しかし、なんどかその繰り返しをして、こんな繰り返しもう嫌だと嫌気がさした人は、あるいは、強い良心が芽生え始めた人は、あるいは、この先、どんな恐ろしいことが待っているんだろうと人一倍臆病な人はー幸いな臆病者!ー、試練に遭わなくても日々自分から罪を探り、悔い改めるという習慣を身に付けて行きます。
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
スエデンボルグは本当の試練とは、霊における剥奪であって、世の人が言う病や災害や対人トラブルのことではないと教えてくれています。後者は自己愛が苦しむだけであって、真の試練ではないと。しかし、霊における真の試練に追い込むために最初の段階で、肉の試練が用いられます。それによって、わたしたちは肉での幸いの虚しさを知り、より内的な部分に目を向け、主を求め始めるからです。 悩み、葛藤はあります、しかし、平素より自分を点検し祈る人は内側で試練に遭い、それを怠る人は外側で試練に遭い立ち返らされます。 平素より真剣に念祷する人がたとえ世の試練を受けたとしても、それはそれが起こったらどうしようという不安や恐れだけで、実際にそれが起こることはありません。それは申命記の約束の通りです。信じてもしその通りにならなかったらとその時の衝撃を恐れて、最初から主の約束に賭けることに私たちは恐れを感じたり、本性的に抵抗したりして、信じることを採ろうとしませんが、主の命じられる言葉は「信じなさい」です。
彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
列王記上19:3,4
私たちは人生の中でなんどとなくエリアのように主に嘆きます。でも、その脅えの中で、その願い通り命を取り去られたら、私たちは死んで後もその脅かしを受ける世界に住むことになります。よしや天界に入れられたとしても、自分を地獄からの脅かしから身を避けて天使として保つことで精いっぱいで、他の人々を助ける力強い天使ではないでしょう。だから、今の恐れから、そしてそれに順当に続く恐れのない国に行くためには、生きている今、祈って変えられるしかありません。「神の国はそこかしこに来るのではありません、実にあなたのただ中に来るのです。」
>毎日悔い改めていると、自分を否定し続けて、自信を失っていきます。
自信を失っていっていけないですか。私が世に出ていくときは、主に前に立って進んでもらい、その陰に隠れながらついて行く感じです。 「自分を卑下すること、全否定すること」とスエデンボルグの本にも出て来て、『キリストに倣いて』との共通メッセージを見つけてやはりスエデンボルグもそうだったんだと感動したことがありました。
思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」 と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
第Ⅱコリント12:7~10
祈りの「コツ」については上にちりばめられていますね。
分からない時はわからないままその己が霊を主の前に置いておくことです。
内がごちゃごちゃしてどう祈っていいのかわからないことってありませんか?そんなときは、そのゴチャゴチャしたままを主の前に差し出します。
憐れんでくださいと待ち望む祈りはたとえどんな祈りであっても主が放っておかれることはありません。永遠に主の前に数えられています。
0コメント