信仰の暗夜 見ずして信じる
『生命の道』を読んで、先生にお聞きしたいことがあります。
第22 助け主としての主
2、人の善(真の意味の幸福)は神のただ一つの目的である 「主が誰かと共におられる時は、彼はその人を導き、彼におこることは何でも、悲しいことでもうれしいことでも、すべてを彼の善に変えるよう備えられる。これが神慮である」
9、神慮の導きと守 「神慮の導きと守りは他の如何なるそれらとも違う点は、神慮はたえず永遠なるものを顧慮し、たえず人を救に導く、そこへは、いろいろの状態、ある時は喜ばしい、ある時は悲しい状態を通って導く。このことを人は全く理解し得ないが、これらはすべてその人の永生に導くのである。」
本当に主に導かれているのか不安になる時、その証を求めてしまいます。
16、事故(災難) 「神慮は見られないように、考えられないように働くのは、人は自由におこる出来事を神慮のせいにしたり、またチャンスのせいにしたりするためである。 神慮はだれにでも見られるように、又考えられるように行われるとすれば、人が見たり、考えたりすることから信ずる危険に陥り、物事は神慮からくるとか、その逆のことを信ずるようになる。 こうなると人の内面で真を偽とを混交して、真理が穢される、それは永遠の地獄である。」
主の導きは人には分からないようになっているのでしょうか。 そうであれば、導かれている証を求めるのではなく、導かれていると信じることが大切なのでしょうか。 教えていただければ幸いです。
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その通りです。
主の導きは、すぐにそれとは見られないようになっています。 私たちが自分の意志で自由に道を選んでいるかのように、その意識を保たせながら、それでも実際には主がどんな細かなことにも永遠の先を見通して作用し、なおかつ、その作用を感じさせないように導かれます。人が自由に選び取ったものでないと、その人のものにならないからです。
また、迷いや葛藤や疑いの中で、闇の中で、思考し、祈り、賭けて進むときに、私たちの魂は成長するようになっているからです。これを十字架のヨハネは「信仰の暗夜」と呼びました。
「あなたは見たから信じたのですか? 見ずして信じるものは幸いです。」
ですし、また、
「 彼らに答えられた、
『この悪い、神を忘れた時代の人は、信ずるのに徴をほしがる。
しかしこの 人たちには、預言者ヨナの徴以外の徴は与えられない。』 」Matt. 12:39
と主は仰いました。
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