イエスさまと父なる神さまが一緒ならイエスさまはどうして父よと祈ったのかな

イエスさまが「父よ・・」と祈る箇所で、またちょっとわからなくなってしまいました。イエスさまと父なる神さまが一緒ならイエスさまはどうして父よと祈ったのかなと思ってしまってそういうことがわかるにはどうしたらいいかと思って…。


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さて、イエス様は生きていた時、ご飯を食べたと思いますか?

「そんなの当たり前でしょ」

というのではないでしょうか?

イエス様は人として33年の人生を送られました。

肉は肉の神である太陽からの光と熱を受けて。私たち人間は通常、その光と熱のエネルギーを直接受けられないので、植物が私たちの受ける形にしてくれた作物(そのうちにエネルギーの通貨といわれるATPがあります)で摂り、日々、体が活かされます。

霊(意志と理性)は、霊界の太陽なる神からの熱と光を受け取って、それをエネルギーとして意欲する熱意と判断する光を受けて活かされます。

体の神、太陽のエネルギーを受けるためには食事をします。

霊の太陽、神のエネルギーを受けるためする霊がする食事、それが祈りです。

祈りはいつも「主よ」「神よ」とへりくだることで、霊界の太陽からの熱と光を受容します。そのようにして、人は活かされるように創造されました。そして、イエス様は生きている間、まったく、人として生きてくださいました。


「神の子なら、この石をパンに変えてみろ」と言われても、石をパンに変えることはせず、労働して、お百姓さんが収穫してくれたものを買って食しました。

同じく、霊の日々の生活においても、「神の子なら、神に祈らず、生きよ」と言われても、人と同じように、「天の父よ」と神に霊体を活かしてもらいながら、日常の、人に閉じ込められた霊の命を生きてくださいました。 


「尊い先生」と呼ばれたときに、

「なぜ私を尊いというか、尊い方は神以外にはいない」

と言葉を返されました。

ダビデの末裔という人類で最強に邪悪な肉を負わされて、それを人と同じように、見せられた悪を神に祈り、待ち望み、一つ一つ浄化されていくという過程を進まれ、まだその途上にある私をなぜ「尊い」と言いますか、と。

しかし、最後のゴルゴダの十字架の極みまで、その内奥の神性によって、その肉の十字架を追い切って、ダビデの末裔というその肉を栄化しつくして復活された後には、トマスから

「わが主、わが神」

と言われたときには、

「あなたは見たから信じたのですか?見ずに信じる者は幸いです」

とトマスのその言葉を受け入れられたのです。

ヒルティ喫茶:虹息

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