イエス様はご自分とは違った人にするかのように主に祈られました。

ちょうど、スエデンボルグの本で、イエス様が別人にするかのように主に祈られたことについて書いている箇所が出てきました。


主がその父エホバを礼拝し、祈られたことは福音書中のみ言葉から明らかです。しかも、エホバが主の中におられるにもかかわらず、主はご自分とは違った人にするかのようにエホバに祈られました。しかし、この場合の主の状態は、謙譲の状態で、主が母から受けた人間の弱さを脱ぎ捨てて、神性をとられるときは別の状態におられます。これを栄光の状態といいます。

前者の状態におられたとき、主はご自分の中におられるにもかかわらず、ご自分と違った方のようにエホバに祈られました。しかし、後者の状態、すなわち、栄光の状態におられたときは、ご自分と語られるように、エホバと語られました。種はエホバご自身であらせられたからです。

『天界の秘儀』1992


誰でも望みさえすれば、子供の時の自分を再生することができます。…

あなたは愛されず、愛を知らなかったかもしれません。愛の欠如があなたを悪人にしたとしても、今は、神の愛があなたを抱きしめているのですから、信心深くありなさい。すべての愛に勝る愛の中で天上の喜びを味わうことができるように。

『私に啓示された福音 8巻中』524.10


◆ 謙譲と栄光

主が合一に進まれることは彼が自己を無にする状態で、合一そのものは栄光の状態です。主は地上におられたとき、二つの状態におられました。それが自己を無にする状態と栄光の状態とであることは教会でよく認められています。前の状態、すなわち、自分を無にする状態はみ言葉の多くの場所で述べられている。


しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。


しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。イザヤ書53:5~12


この同じ状態は父の前では謙譲の状態である。主が父に祈られたとか、父の御心を行なわれたとか、主の言われたことを、また、行われたことを全て父に帰し給うたとかといったところのことである。


・主の父に祈られたことは、

マタイ福音書26:36~44、そのほかに。

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」


それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」


イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。


・父の御心を行われたことは、ヨハネ福音書4:34、5:30に。

4:34イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。


・主のすべての言行を父に帰せられたことは、ヨハネ8:26~28に。

わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」

彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。イエスは言われた。


「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。


主は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と仰っられた(マタイ福音書27:46)。もし、この状態がなかったならば、主が十字架にかかるようなことはあり得なかったであろう。


栄光の状態はまた合一の状態である。主が3人の弟子のお前で変容されたとき、またいろいろの軌跡を行われたとき、また、父と彼とは一つであるとか、父は彼の中に、彼は父の中におられるとか、父のものはみな彼のものであると言われた時、主は栄光の状態におられた。その最も完全な合一は「あらゆるものの上に力を持たれる」ヨハネ福音書17:2、また「天にても地にても一切の権を授けられた」と告げられた時であった。

『真のキリスト教』104

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