中世の修道士たちの霊が、食べ物に餓えて彷徨ってる‥

 先日投稿した文章にyurika4328さんからコメント&それへの私の返事 ―その2― になります。


 美味しいものを食べて、欲しいものを手に入れても、そのときだけしか満たされないばかりか、もっと欲しくなってその欲望の度合いによっては破滅の人生に向かうばかりです。 

イエス様が心にやってきたときの全身を満たす充足感を味わうと、どんなご馳走や財宝よりも素晴らしく、言葉が適切かどうかわかりませんが「やみつき」になりますね。


 >yurika4328さん そう、「やみつき」。一度味を占めると、祈るんですよと言われなくても祈るようになりますよね。この文章ではそこまで書きませんでしたが、さらにその先には、十字架のヨハネの説く『信仰の暗夜』があるのです。これについては、また、機会がありましたら‥と思ったら、以前にすでに書いたことがありましたね。 


便利な生活。溢れるヒト、モノ。正直に言うと最近の私は少々世俗にまみれ過ぎていたようです。何が大切なのか、先生のブログのおかげで思い直すことが出来ました。 でも、それでも私は色んな所に旅して綺麗な山、川、海、歴史の跡を見てみたいし、本も漫画も読むし、安くていいけどお洋服も1,2枚は欲しい。子どもたちにも教育を施して、豊かに育ててあげたい、と思います。欲だらけですね。 

今の私はまだ未熟なので、「すべての欲を取り除いて下さい」と祈りきれません。「本当に必要なものであれば、どうかください」と祈って、手に入らないものはイエス様が必要ないと言っているのだ、と思うことにしています。 いつか私も、先生や敬虔なクリスチャンの方々のようになりたいなあ・・・と願ってはいますが道のりはまだまだ険しいなと痛感しています。


 >yurika4328さん 

欲そのものは全廃しなくていいのですよ。

ただ、その優先順位が転倒しないように注意が必要とスエデンボルグは言っていました。「自己愛」もないと人は生命を維持できなくなります。 


昔は私も、ストイックにストイックにしないと狭き門から入れないと思っていた時期がありました。でも、スエデンボルグの記載に、目を与えた神は目で美しいものを見て楽しむようにと、耳を与えた神は耳で麗しい音色を聴いて楽しむようにと、舌を与えた神は美味しいものを食べて味わうようにと、私たちにそれらの感覚を与えられたというようなところがあって、それまでの張りつめていたものが解けました。 

また、スエデンボルグは中世の修道院で禁欲に生きた修道士たちの霊が、食べ物をもとめて修道院をさまよっているとの描写も残しています。 


休み時間をとることは罪ではないし、かえって、本業を効率よくこなしていく助けになるという点では善です。でも、休み時間をとりすぎて本業が全然進まなくなってしまっては、本末転倒、その休み時間は目的と有用性をなくしてしまいます。そういうことです。 


スエデンボルグはまた、イエスさまの喩から、教会の人たちで金持ちは天国に行けないと思い込んでいる人たちがいるが、そうではない。お金持ちになって、それを用いて善をなしていくことができ、その善はその人をして天界に入らしめると書いています。 

取り上げたエピクテトスの言葉とはちょっとずれますけど、スエデンボルグは本質的な善に注目するので極めて自由です。 もちろん、お金持ちの人が受けやすい種類の誘惑があります。それに飲まれてしまうと、金持ちであったことがあだになったと言えるでしょうけど。 

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]