人のうちにある悪い性質は己が名前を呼ばれるたびに喜ぶ
友からの手紙と彼への私の返事からです。
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最近特に思うのですが、ふと気が付くと、いつも自分のことばかり考えている自分に嫌気がさします。 自己愛が原因で、不安や心配、いらだちなど精神的な疲れの元となる感情が生まれることは、一応分かってはいるつもりですが、 それでも無意識のうちに自分のことばかり考えています。 自己愛から少しずつでも解放されていかないと、成長できないわがままな人間、自分にも他人にも無益な人間のままな気がします。
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『眠られぬ夜のために』のなかに、
人のうちにある悪い性質は己が名前を呼ばれるたびに喜ぶ、たとえそれが自分を非難するものであっても。
というような言葉があったかと思います。
わたしたちが自然と自分の事ばかり考えるというのは、カニが横に歩くというような事実と同じで、私たちが、生まれながらの命のまま変革なく生きているうちは変わりようがありません。
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
ヨハネ福音書3章
「無意識のうちに自分のことばかり考えている」というのは私たちの生まれながらの命の本性ですので、結局、この本性なる生まれながらの命がすげ替えられていかないことには、どんなに肉の意識で努力しようと─カニがどんなに力んでも変わりなく横に歩いてしまうように─、自然と頭のなかが自分のことのみで占められていくという私たちの内なる現実は変わらないのです。
自分の全存在・全能力を尽くして主を愛すること、自分の命に優って隣人を愛すること、これこそは天界の住民に共通した目標であり、その体現の度合いがすなわち、天界の太陽、主イエスさまとの距離になっていますが、この実現ために、私たちの側で必要なこと(あるいは、「為しうること」というべきでしょうか)は、最初の信仰による賭けとそれに伴う待ち望みの祈りです。 つまり、念祷と射祷です。
『無名の巡礼者』は読んだことがありますか?
P.S. いま調べたら絶版で、Amazonの古本出品では1万3千数百円の値がついていました!!!
ああ、私も持っていました。ご希望でしたらお貸しします。
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