自分は救われることさえおぼつかないという絶望に至る時、初めて、人は主の慰めと助けを受ける
先日の友からの手紙への追記:
つい2,3日前に読んだ箇所です。
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【『天界の秘儀』2694.4】
義認された以上自分の中には悪は存在しない、悪は完全に拭い去られ、自分は潔くなったと思い込んでいる人がいます。彼らに対し、何千もの理由を見せられます。つまり、拭い去られたり消されたりするものは何もないということ、そして、悪は背後に退いただけで、主によって善の中に保たれているに過ぎないということをです。 ただし、これは、この世にいたときの善の〈いのち〉から、以上のことが可能であった人について言えることです。
ところで、自分は悪以外の何物でもなく、汚らわしい悪の堆積であることを経験で悟ったとしても、自分についての思い込みから離れられない人がいます。 しかしながら、自分自身の中に地獄があることを感知する状態にいらられる時、また救われることさえおぼつかないという絶望に至る時、まさにその時初めて、思い込みが壊されます。それとともに、誇りや自分に比べて他者を軽蔑する思いや、救われるのは自分だけだという思い上りが打ち砕かれるのです。 そのとき、その人は、すべての善は主に由来するということ、また、すべては主のおん憐みによるという信仰を、本心から告白するようになります。また、主のみ前に、心からの謙虚さを得るようになります。
実際のところ、このことは、自分自身の本当の姿が分からない限り、不可能なことです。 ここで、今はっきりすることは、自己改革に入り、霊的になる場合に、前述のように、荒廃や寂寥(せきりょう)の状態になぜ入れられるかということです。人は絶望にまで至った時、初めて、主からの慰めと助けを得るのことができるのです。
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「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、
その名を聖ととなえられる者がこう言われる、
『私は高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす』」。
イザヤ57:15
自分の悪い性質はどうしようもない、と全く絶望したときに、真の救いの業があなたの内で起動し始めます。
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