苦しみのさなかにさえある幸福について
以前、次のヒルティの言葉を投稿したときにコメントをいただきました。 以下はそのときのヒルティの言葉と、それへのコメントと私の返事です。
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幸福感は、ひとえに神とともにあることに存する。
人類が出現して以来、真にその中心問題をなしてきた,この、苦しみからの救いという問題を解決して、あらゆる苦しむ人々におよそ助けを与えようとするならば、こういわざるをえない。
「何よりも悲しみを追放したまえ。
悲しみはまず心と神経を、
つぎには精神を害して、
他のいかなる禍いよりも確実に死をもたらす」
と。
しかし、悲しみはどのような物質的手段を用いても追放されない。 この方法では、ただ一個人のためにさえ、すべての苦しみをことごとくとり除くことは不可能である。苦しみは人間存在の不可欠な部分であって、あらゆる人生は苦しみに始まり、苦しみに終わる。たいていの人の生活は、ほとんど絶え間なく苦しみに満たされている。
この事実を変えようとしたり、自分ひとりこの法則の例外になろうとしても、まったく無駄である。 なんといっても、結局、問題はもっぱら“幸福”ということに帰するが、幸福感は苦しみにもかかわらず、また苦しみのさなかにさえ、ありうるものであって、それはひとえに神とともにあることに存する。
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>ねふぇしゅさんに。
「幸福感は苦しみにかかわらず、また苦しみのさなかにさえありうる…」
違うと思いますが…人は幸福な時よりも苦しんだ時の事の方を記憶している。
>涼さんへ
たしかに、「記憶」という点でいうと、苦しみのさなかにえも言えぬ幸福を味わうという体験は、初めてそれに浴したときは、それまでの自分の経験や世間で言われている常識からするとありえないことなので、その後も記憶に残ります。
しかし、それはおそらく、涼さんの文章にある「幸福」、そして、世間一般で取りざたされる幸不幸の「幸」の方の幸福とは異なります。涼さんも私もそれなら知っています。
そういう意味でも、この幸福は涼さんの言う「幸福な時」の記憶よりも、かけ離れていて記憶に残ります。
さらにはっきり言うと、これは「違うと思う、違わないと思う」の記述ではなく、人生経験を経て老境に至ったヒルティの経験に基づく報告なのです。
そして、私も、ヒルティ翁の言っている苦しみのさなかの幸福感を、ヒルティ翁ほどではないかもしれませんが、体験しているので─正直なところ、初めて体験したときは、この苦しみのさなかにあるのに、どうしてこんな境地でいる自分はどうにかなってしまったのではないかと思いました。でも、その不釣り合いさは生活に破たんをきたすようなものではなく、より力強く生活に向かわせるものとして私の駆動力として働きました─、この文章は本当です、みなさん、こんな幸福感が私たちの人生にはありうるんですよ、と知ってほしいと思いました。
わたしは、聖書に生きる中で、聖書の神からこれをもらいましたが、ほかの宗教にもあるのかもしれません(聖書信仰しか持ったことがないのでわかりません)。 これを経験する前なら、私も涼さんと同じように、たとえば「記憶の問題」と自分の経験の範囲でしか考えきれなかったかもしれません。
これは、自分で一生懸命、自分を鼓舞するような手のものではなく、またよいように、より気持ちが楽になるように考えようとする思考の作業(ポジティブ思考や、認知の修正、気休めなど)でもありません。まったく、自分以外のところからくる否定しようのない一つの力です。ああ、神さまって本当にいるんだと、これを経験すると思います。
私にとって、「信仰」が気休めや人生哲学・生きる指標の一つに過ぎないものであったのなら、弱い私のような者はもう人生が破たんしていたでしょう(強い人たちのことはわかりません、信仰なしで一生を送れる人たちもたくさんいますもんね)。それが、自分の思い込みや自分で作りだした必死でしがみついた観念であったのなら、わたしはもう居なかったと思います。
それは私と別のところから来る力、作用でないと、そして、それは1回きりでも駄目で、繰り返し、私を引き上げ、安心で包みこみ、萎えた自分に新たな力を発露させるものでないと生きていけません。 この世に、命を活かす力以上に確かなものがあるのでしょうか。
それらを記憶で比べてみて、涼さんの文章に続けて書くならば、「「人は幸福な時よりも苦しんだ時のことを記憶している」と人は言う。しかし、さらに記憶に残るものは苦しみのさなかで経験する、それ以前に経験した幸不幸を超えた天来の(偉そうにと思われるかな?)幸福です。」となるのかな。
この幸福を味わってほかの人にもこの事実を知らせて慰めてあげたい時に、わざわざ、こんなまどろっこしい表現をしたくはならないとおもいますが (;^ω^) 。
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