こんな私はどのように祈れば良いのでしょうか‥

友への返事。その3。


数え切れないほどの悪い性質を持つ自分にうんざりです。 今の私の状態が、先生のおっしゃる「絶望」なのかもしれません。 こんな私はどのように祈れば良いのでしょうか。


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己が悪しき命からの解放を求める祈りは、念祷と射祷です。 


朝と晩、いえ晩だけでも念祷し、日中静まれない時は

「主イエスキリスト(罪人の私を)憐れんでください」

とひたすら唱え続けます。

立っていても、

座っていても、

人と話していても、

仕事をしていても、

食事していても、

テレビを見ていても‥


‥5分もせずに気が付いたら忘れてしまっていますけどね  (^^;)。

思い出したら、その瞬間からまた祈りはじめます‥

中学生の時、古文の時間で『徒然草』にも出てきました、


或人、法然上人に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行(ぎょう)を怠り侍(はべる)る事、いかゞして、この障(さわ)りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊(とうと)かりけり。

(39段)

ダハハ (´∀`;) 、「いと尊かりけり」‥

‥ほとんど一日中忘れてしまっていますけどね (f^^;) 


念祷は、毎日仕事で出会う患者さんが最高のお手本です。  

患者さんは診察台に座り、自分の悪いところを述べますよね。医者の側はそこに光を当て、その治療をしていきます。患者さんは‥ 何もしません。

自分の症状を伝えたら、そのあとは医者にわが身をゆだね、その治療が終わるのを待ちます。いま、医者が自分が治してくれていることに信頼して、ただ黙ってそこに座り続けてくれています。私たち医者の側の治療が終わるまで(その時問題になるのは医者の知恵と能力です。患者の側はそれを邪魔しないというのが努める唯一のことです)。  

それが念祷です。


「患者さん」は、罪深い自分の姿に苦しんでいる私たちです。治してくださるのはイエスさま。


イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

ルカによる福音書5:31~32



治療が終わるまで、毎日、今日はこれでいいよという思いが来るまで時間を差し出せればいいのですが、日々の生活がある私たちには、それはなかなかできないことです。目安は1時間。これもなかなかできないのではないでしょうか。だから、まず、15分。主に何もしない時間を捧げましょう。

診察台に(主の前に)座って、具体的に、今日見せられた自分の罪を確認して差し出し、これを何とかしてください、と願い、あとは、待つ、何もしないで座ったまま、待つ、いま主が取り扱ってくださっていると信じて(賭けて)待つ‥


島々よ、わが前に静まれ。静まりて新しき力を得よ。

イザヤ書41:1


いろんな思いが湧いてきます、こんなことしていても変わるのだろうか?、ほんとうに主は聞いてくださっているのだろうか?といった不安や疑い、また気が付くと世のことや雑念で頭がいっぱいになっていたリ、それでも(気付いた時点からまた心を主に向けて)ただ、ゆだねて、待つ。 

さっきの、法然上人の答えを取り上げた『徒然草』の39段には続きがあります。


また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。


疑いいっぱいになっていたとしても、そこに座っているのなら、それは信仰の行為にほかなりません。スエデンボルグは、人が最も強い疑いのうちに苦しむとき、そのときにこそ、神はその人に最も近くましまし、もっとも強く働いておられると報告しています。不信仰の思いに攻められているということは信じ続けようとしているからこそ起こる状態ですし、「祈れない」と苦しむのは、その人が祈ろうとしているからに他なりません。


人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

エレミヤ哀歌3:27~33


「くびき」というのは私たちの罪とがの命のことです。「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。」って、日常で出会う悪意の人の前でされるがまま、無抵抗でいなさい、ということを言っているのではありません。私たちのうちで繰り広げられる、私たちの悪い性質や過去の悪行をつついて責め立て続ける悪霊の攻撃のことです。そのさいなまされる心を主の前に差し出して、「主よ、憐れんでください」と主が解放してくださるのを待ち続けるのです。


フィンランディアの勇壮な調べに乗せて歌われる『静かに待てわが霊よ』の作詞者、カタリーナ・フォン・シュレーゲルは、このような祈りの恩恵を受けつつ生きた人なのでしょうね。


 静かに待てわが霊よ 聖歌309番 


「みゆるしあらずば」讃美歌511番 


1 みゆるしあらずば ほろぶべきこの身 

 わが主よ、あわれみ すくいたまえ。 

  イエスきみよ、このままに、 

  我をこのままに 救い給え。  


2 つみのみつもりて いさおはなけれど、

  なお主の血により すくいたまえ。

   イエスきみよ、このままに、 

   我をこのままに 救い給え。 


3 みめぐみうくべき 身にしあらねども、 

   ただ御名のために すくいたまえ。 

      イエスきみよ、このままに、 

      我をこのままに 救い給え。 


4 みわざを世になす ちからあるものと、 

   わが身もこころも ならせたまえ。 

      イエスきみよ、このままに、 

      我をこのままに 救い給え。  




以下は、参考です。この通りに祈りましょうということではありません。ここで紹介されている祈りの形式はどうあれ、これらの文章から伝わってくる罪から救われたいとの切なる願い、真摯な祈りの態度が伝わって来て、今の私たちを励ましてくれると思います。


『謙遜』アンドリュー・マーレー〈付録〉より~

    ↑ 全訳のPDFが公開されているのですね。


<謙遜を求める祈り> 

ここにすべての⼈を真理に向かっているかどうかをためす確実な試⾦⽯があります。

それはこうです。⼀ヶ⽉間だけ、この世から退き、すべての会話を遮断してください。書く ことも、読むことも、⾃分と対話することもやめてください。そのようなあなたの⼼と思いの働きをすべて⽌めてください。

そしてあなたの⼼のいっさいを尽くして、この⼀ヶ⽉間、以下の神への祈りをできる限り継続してください。ひざまずいて何度も祈ってくださ い。あるいは座っていても、歩いていても、⽴っていても、いつでも内⼼でこのひとつの 祈りを切に願い、熱⼼に祈ってください。

「神はすぐれて良い⽅なので、どのような種類 の⾼ぶりも、どのような形の⾼ぶりも、どのような程度の⾼ぶりも、悪霊から来たものであれ、私⾃⾝の堕落した性質から来たものであれ、私に知らせてくださり、私の⼼から取 り去ってくださいますように。神が私の内にあの謙遜の最も深い奥⾏きと真理を⽬覚めさ せてくださいますように。その謙遜こそが、神の光と聖霊が私の内に⼊ってくるのを可能にしますから。」

あらゆる雑念を拒み、⼼の底からこのような祈りをもって待ち望むのです。悩みの窮地にある⼈が解放を求めて祈るような真実と熱⼼をもって。……この祈りの 霊を求める真実と誠実の中で⾃分⾃⾝を⼿放すことができるなら、私は次のことを確信をもって保証します。仮にあなたがマグダラのマリアの⼆倍の悪霊を持っているとしても、すべての悪霊どもがあなたから出て⾏き、彼⼥と共に聖なるイエスの⾜元で愛の涙を流さざるをえなくなるでしょう。

『祈りの霊』パート 2


~『イエススの祈り』第1部 2 イエスの御名の呼吸 より~ 

それは神秘の沈黙を探し、すべての思いを、たとえそれが許されるもののように見えるものでさえ、それを遠ざけ、心の深みにしっかりと根ざし、

「主イエス・キリスト 神の御子よ 私をあえわれみたまえ」

と祈るのに適している。時としてある人は

「主イエス・キリストよ 私をあわれみください」

としか言わないであろう。次には

「神の御子よ 私をあわれみください」

とさらに変えるだろう。~中途省略~この祈りを注意深く唱えながら、あるいは立ち、あるいは座り、あるいは横たわっているのだろうか。あまりせわしく呼吸せず、なるべくゆっくりと息を長く保つように心がけなさい。~中途省略~汚れた思いがあるのを精神の中に現れたなら、それに注意してはならない。かえって息を保ちつつ、精神を心の中に閉じ込めて、絶えず気を散らすことなく主イエスの名をよびなさい。そうすればこれらのものは見えないが、神の御名によって焼かれて逃れ去るだろう。 


~『無名の巡礼者』 第4の物語 より~ 

(自然な)呼吸に合わせて「イエスの祈り」を心の中に入れたり出したりするようにつとめてください。それは、

息を吸い込むときに「主イエス・キリストよ」、

はき出すときに「私をあわれんでください」

と心に感じるか、あるいは(口で)唱えるのです。そうすれば心の中に快い(霊的な)痛みをおぼえてくるようになり、さらに(霊的に)心全体が気持ちの良い温度で暖められてきます。 

さて、これらのことが成し遂げられれば、その後は神様がいよいよ内的な祈りができるようにしてくださいます。もちろんこれらのことについては知恵(人間の浅知恵)による判断からくる一切の望みやその他の思いつきから遠ざかるようにしてください。内的な祈りをするときには何も〔余計なものは)見てはいけないと、聖なる師父たちがはっきりと語っています。


~『無名の巡礼者』 第5の物語 より~

「イエスの祈り」の奥深さはその言葉そのものの中に顕れてているのです。祈りはふたつの部分から成っていますね。

はじめの「主イエス・キリスト 神の御子」という部分はイエス・キリストの史実を考えさせてくれます。もしくは教父たちが説明なさっているように、この部分自体が約された福音なのです。

そして第2の部分「罪人の私をあわれんでください」は尋常でない方法で私達の弱さと罪深さの由来を伝えています。どうしてかとえば、卑しく取るに足らない、罪深い人間がこの言葉以上に根本的にまた、これ以上適切に哀願を表すことなどできはしないからです。他の嘆願のどれをとっても、この言葉ほど範囲の広い全体を含んだものは他には決してありません。

たとえば、もし「私を赦してください。数々の罪の汚れを浄めてください。私から悪い所を取り去り、罪科を帳消ししてください」と祈るとすると、こうしした言葉は全部不安から発しており、罪を逃れようとする不甲斐ない怠慢な人間から生じる唯一の嘆願しか表さないでしょう。それに引き替え「私をあわれんでください」という言葉は、不安の結果である赦しを求める懇願だけでなく、子としての愛の誠実な哀願であり、神のあわれみへの信頼なのです。それは謙虚に己の弱さに気づいている、また己を見張っている手綱を緩めたことを知ている人間の哀願です。それは赦しと恩恵と、誘惑に打ち勝つための、また己の罪深い傾きを克服するための力を神に求めるための哀願です。これは貧しい借り主が、思いやりのある貸し主に借金を免じていただきたい、と頼むばかりか、自分の貧しさを思い遣って、恵みを請い願うのに例えられます。 

「私をあわれんでください」という心からの言葉は、いわば「慈しみ深い主よ!私の罪を赦し、生き方を改善する力を与えてください。あなたのみ旨をおこないたいという熱い思いを抱かせ、私の思いと、心の意志があなただけに立ち返るようにしてくだえさい」とお伝えしているのです。


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あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイによる福音書6:6


そこでイエスは彼らに言われた「いつでも祈るときには“父よ”と呼びかけなさい」。

ルカによる福音書 11:2

 

ヒルティ喫茶:虹息

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