悪人の卑怯な言い訳。かつ、すべての人に天国が開かれている事について
『幸福論 第一部』の次の箇所を読んだ同じ時期に、
それを補佐し、共調し、相補する複数の文章が重なりました。
まず、その『幸福論』の一節から──
「‥大切なことは、心が確かに定まることであって、単に頭で理論を受け容れることではない。人間の最奥の確信はすっかりその天性とならなければいけないので、いつまでも作りものであってはならない。さもなければ、自分に満足を与え、他人に感化を及ぼすことはできない。
けれども、この信仰は、キリスト教の‘観方’にしたがえば、なんらかの論証やそこから出てくる見識の結果ではなく、まず第一に神への心の傾きがあり(ヨシュア記24:23「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」)、なお進んでは、神に対する意思の決定があって、そこから自然に生ずる結果なのである。
この唯一の理由からして、キリスト教的人生観は、いやしくも意思を持つ限りの人に対して、その不信仰をその人の責任に帰しているのである。意思なしには責任問題は起こらないからである。 このあらゆる哲学、あらゆる宗教の‘出発点’において、キリスト教とストア哲学とは完全に一致している。ストア哲学もまた、‘意思をわれわれの力の及ぶもの’としている。これを否定するときは、道徳のあらゆる観念が総じて無意味となり、したがって、そうした問題に関する一切の議論が終わってしまうからである。
これに反して、キリスト教は、‘その上でなお’、各人の自力による信仰でなく、むしろ、ただひたすらな神への「回心」のみを要求するのである。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓った。
わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。
すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、
『ただ、主にだけ、正義と力がある。』
と言う。
主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。
イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」
イザヤ書45:22~25
この回心が実際に人を益するためには、それはあくまでも、正直誠実でなければならぬ。」
『幸福論 第一部』エピクテトス 50注 p.100
以下は、その同時期に重なって読んだ箇所です。
‥この世から来世に来たばかりの霊たちには、以上の事実を繰り返して示されます。
ところが、
「すべての悪と偽りが流入によるものなら、悪や偽りは自分たちの責任ではなく、外から来たものとして、自分たちには過失がない」
という者がいました。
しかし、自分から出た考えだと信じ、自分から欲するものと信じることによって、それを自分のものとして同化吸収するわけで、
「もし事実どおりに信じていたら、悪や偽りを同化しなかっただろう」
という答えが返ってきました。なお、
「そうなると、すべての善や真理は主から来るものと信じるし、そう信じれば、主から導かれるのに耐えたはずで、状態も違ったはずだ」
と言われました。
『天界の秘儀』4151.6
人間の一切の行いに対する最後の審判というものを、われわれは人間的な概念や類推によって考えがちである。だから、次のような、一応もっともらしいことをいう者がきっと多いであろう、
「主よ、あなたは私たちの力がどんなに弱く、そしてこの世の誘惑の力がどんなに大きかったかを、最もよく知っていられます。このことを考えられて、私たちを公平にお裁きください。」
しかし、これに対する主の答えはこうではあるまいか、
「しかし、あなたはわたしがあなた自身の力で徳を高めよと求めなかったことをよく知っており、また善を行う力がつねにどこで得られるのかも教えられていた。それなのに、あなたは無関心と傲慢と偏見とから、わたしの道を歩くのを怠ったのだ。」
――このことはまた別個の、しかも決定的な問題を含んでいる。
『眠られぬ夜のために 第一部』 8月6日
人は自分の力でやるかのように、自己改革することも、生まれ変わることもできます。ただ心の中で、それが主の御力によると認めればいいのです。悔い改めて主を信じれば、人には皆自己改革と再生があります。自己改革も再生も、人が自分の力でやるように行うわけですが、その「自分の力でやるように」行うことこそ、主の御力なのです。
ということで、人はそれに対し、自分からは何ひとつできませんが、銅像のようなものとして造られているわけではありません。自分の力でするかのように、主の御力で行うことができるように造られています。主は、人が自発的に行うのを何よりも望んでおられますが、これこそ愛と信仰の相補関係をつくります。
一言でいうと、自分の力で行いなさい。しかし、それが主の御力によるものと信じなさいということです。つまり、自分の力でやるかのように行いなさいと言うことです。
『真のキリスト教』621.9(『メディテーション1』(アルカナ出版)より)
最後に、以上の言葉から想起された次の主のたとえ話を。
人々がこれらの言葉を聞いている時に、イエスはなお一つのたとえをお話になった。それはエルサレムに近づいて来られたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。それで言われた、
「ある身分の高い人が、王位を受けて帰って来るために、遠い所へ旅立つことになった。そこで十人の僕を呼び、十ミナを渡して言った、
『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』。
ところが、本国の住人は彼を憎んでいたので、後から使者を送って、『この人が王になるのを我々は望んでいない』と言わせた。
さて、彼が王位を受けて帰って来た時、誰がどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕達を呼んで来させた。最初の者が進み出て言った、
『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナ儲けました』。
主人は言った、
『良い僕よ、うまくやった。あなたは小さいことに忠実であったから、十の町を支配させる』。
次の者が来て言った、
『ご主人様、あなたの一ミナで五をミナ作りました』。
そこでこの者にも、
『では、あなたは五つの町の頭になれ』
と言った。
それから、もう一人の者が来て言った、
『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。私はそれをふくさに包んで、しまって置きました。あなたはきびしい方で、お預けにならなかったものを取り立て、お蒔きにならなかったものを刈る人なので、恐ろしかったのです』。
彼に言った、
『悪い僕よ、私はあなたの言ったその言葉であなたを裁こう。私が厳しくて、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、何故私の金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、私が帰って来た時、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。
そして、そばに立っていた人々に、
『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい』
と言った。彼らは言った、
『ご主人様、あの人はすでに十ミナもっています』。
『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。しかし、私が王になることを好まなかったあの敵どもを、ここに引っ張って来て、私の前で打ち殺せ』」。
ルカによる福音書19:11~27
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