あなたの人生がどんな軌跡を描こうとうも、ある意味、どうでもいいこと。

先日は、『キリストにならいて』の、それぞれに与えられた十字架についてのことばした。

今与えられている十字架を投げ捨てると、なぜ、次に、それよりも重い十字架がくるのか?

救われるためです。

それによって、最大の放棄行為、「自殺」のあとに来るものが予感されるようになります。逃げるたびに、状況がその前より悪化していく、重荷が増えていく、まだ、前のところにとどまって甘んじていた方がましだった‥ということが身に染みて学ばさせられていきます。

だから、十字架が与えられないとき、それは、肉は喜ぶかもしれませんが、私たちの真の命のためにはよくない兆候です。


だから、あのせいでこうなったと嘆く必要はないのです。アリが、あっちにぶつかっては方向を変え、こっちにぶつかっては方向を変え、同じ平面で、あっちに行ったりこっちに行ったりしていますが、それらの衝突、方向転換、迷走を通して、上にあるお月様に気が付くようになれば、それまでの紆余曲折など、それがどんな軌跡を描こうとうも、あるいみ、どうでもいいことなのです。


昨日の『キリストにならいて』の章、「十字架の公道について」にはまた次のように書かれています。


十字架は常に備えられ、至る所であなたを待っている。

どこへ逃げても、あなたはそれを避けることはできない。

あなたの行くところ、どこにでも、あなたは自分を携え、常に、自分を見出すからだ。

もし、あなたが喜んで十字架を担うならば、十字架もあなたを担い、あなたの宿願の目的地へと運んでくれるであろう。そここそ、すなわち、苦難の尽きるところであるが、そのようなところはこの地上にあり得ぬであろう。

もし、あなたが十字架をいやいやながらに担うならば、あなたは自分にとって重荷となり、その重さは増し加わり、それでもあなたはそれを負わねばならなくなる。


と。そして、昨日の言葉に続くのです。

十字架とは「自分」のこと。「自分」が十字架を形成している!

しかし、どこに逃げようとも十字架が避けられないことを認識し始め、もはや、それから逃げようとする無駄な抵抗を手放したとき、その十字架は心地よくなり、いままで人生の歩みを妨げる重石としか見て取れなかったそれが、いな、それこそが、自分を担って安全な道に運んでくれることを体験するのです。

十字架、十字架と言ってもそんなにきつくはなりません。

「私のくびきは負いやすく、私の荷は心地よいから」

という主の言葉は真実です。

あなたが今日お伝えした私の体験談を信じられますように。あるいは、賭けられますように。


ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]