イエスさまからいただくものは、試練ばかりじゃなく、いろんな優遇も、「イエスさま、ありがとう」って子供のように受けていっていいと思いますよ。
‥メールを頂いて、三浦綾子さんが、脊椎カリエスの療養中に西村久蔵さんから初めての見舞を受けたときのお話を思い出していました。
まだ若かりし、けれども闘病で病院のベッドで過ごしていた綾子さんは、洋菓子屋さんの社長(西村久蔵さん)がお見舞い品としてシュークリームを携えてきた時に、「人からもらうことに馴れると人間が卑しくなる」と言って失礼な断りかたをしたそうです。三浦綾子さんは、さらに続けて、その言葉を受けた西村久蔵さんの様子を記しています。
「他の人なら、必ずやむっと顔に出すところであろうが、先生は違った。私の言葉を聞くと、大きな声で磊落(らいらく)に笑い、
「ハイハイわかりました。しかしね、堀田さん(三浦綾子さんの旧姓)。あなたは太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、毎日しゃちこばって生きているのですか」
と尋ねた。私はその笑顔を、この言葉に、自分の愚かさをはっきりと知った。 受けるということがどんなことか、私はそれまで知らなかったのだ。
生れてからその時まで、私は父母兄弟を始め、多くの人から数々の好意や親切を受けて来た。それはあたかも、太陽の光をふんだんに受けるのに似ていた。だが、療養生活が長びくにつれ、私は受ける一方の生活の中で心が歪んできていたのである。私は太陽の光をおおらかな気持で受けるように、多くの人の慰めや励ましを、おおらかに受けるべきであったのである。人の愛を受けるのに必要なのは、素直な感謝の心であった。そのことを私は忘れて、初対面の先生に、見舞の品を非礼にも突き返したのである。」
(新潮文庫版『愛の鬼才』p18)
西村さんのその姿勢に綾子さんは、療養生活が長引くにつれて心がゆがんで愛を素直に受けられなくなっている自分の愚かさを知り、西村さんから何とも言えない暖かさと慰めを見出したのでした。
西村久蔵さんが亡くなったところでは、三浦綾子さんは次のように記しています。
「その翌年の七月、先生は亡くなった。その亡くなるまでの1年4ヶ月、先生は、初めの日に約束されたように、親身になって私をいつくしんでくださった。来るたびに見舞の品を持参された。3人部屋の時は3人分の、6人部屋の時は6人分の品を携えて来、同室の一人一人にもやさしい言葉をかけられた。ある時は、鍋物を鍋のまま、こぼさぬようにそろそろと運んできてくれたり、正月には正月料理を運んでくれたり、痰壷の汚物を捨ててくれたりさえした」
(『愛の鬼才』p19)
感謝する気持ち、周りを気遣う心遣いはとても尊いもので、これからもそのように人に対して接していかれるとよいと思っています。でも、私など、もちろん、けっして“愛の鬼才”ではありませんが、イエスさまは愛の鬼才どころか、愛の根源、愛そのものです。そしてそれはすべての人に平等なのです。
今回、予想外の「厚遇を受け」て恐縮して断るべきかと迷っているあなたのことも、これまで、一度もそのような対応を受けたことのない他の人たちのことも、イエスさまは、あなたが自分の子供のことを愛おしく思うのに優って、等しく愛しておられます、まちがいなく。
だから、イエスさまからいただくものは、試練ばかりじゃなく、いろんな優遇も、「イエスさま、ありがとう」って子供のように受けていっていいと思いますよ。
それでは、また。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。
アーメン、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコ福音書10:14~16
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