人は信じなくったっていいのです。
聖書のみ言葉は魂の真の糧です。
いいですか、すごいことを言いますよ。
御言葉が神なのです。
和言葉は、
みこと(御言・詔)=御事(fact)=尊(みこと)=命(みこと)
となっているでしょ。
和言葉は神の民(=ヤァマト=ヤマト)の言葉ですね。
「私の肉はあなたの真の食べ物、私の血はあなたの真の飲み物」
「私の言葉は、霊であり、命です。」
人は信じなくったっていいのです。
ふらふらとゆらいで、弱くて、結局自分だけが大事で、とても安心して信を置けない、皆、そうであるのに、そんな姿は恥ずかしい、あさましいと、人として人らしく生きようとするところに、その人の健気さがあって、その吹けば飛ぶような“健気さ”が、相手と接するときのその人の尊さだと思うのです。
イエスさまだけです、確かな揺るがぬ愛は。
私のために自分の命を捨ててでも、その愛と真実を極みまで貫いてくださるのは。
私たちは、このイエスさまを通して、相手を見るから、そして、倒れ伏すたびに祈って抱き起こしてくださる方のすくい上げ待ち望むから、それでも、いいところを見ようと、また、相手への善意を選ぼうと、気持ちを持ち直すことができるのです。
人なんて信じられません、信じてあげちゃいけません、自分の真相を見せられれば見せられるほどこのことは確固として揺るぎないものとなっていきます。
よく、人を信じるか信じないかで迷う人がいますが、何をか言わん、です。迷うなんて、まだ何を血迷っているのでしょう。信じられる人なんているはずないじゃないですか。みんな、多少の差があったとしても、本質、自分とおんなじです。自分を信じないように、人を信じない、自分を頼らないように、人に頼らない。あなたの父は天の父だけ、あなたの教師はキリストだけ。主こそとこしえまでも揺るがぬ岩。
イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
ヨハネ福音書2:24~25
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