虚無が虚無になり切った姿がお釈迦さま

FAPの大嶋信頼先生に教わった(正確には、大嶋先生のクライエントの方々の無意識から口々に教えられた)ことには、人類には「支配者・虚無・光」の3タイプがあって、支配者は実に2割も存在し、虚無は8割(大嶋先生は、2割の働きアリと2割のさぼりアリ、6割の日和見アリを連想していました)で、光は極わずかであるということでした。 


虚無というのは、全然、ネガティブなものではなくて、虚無が真に本来その人のある姿、虚無になり切った一つの例がお釈迦さまです。

何ものにもとらわれない、

何ものにも依存しない、

すべてのものに慈悲を持ち、

すべてのものとわけ隔てなく交流するという。 


「支配者」の場合は、ちょっと個人的には身構えてしまいます、上手に距離を保ち、お互い、なるべく嫌な気持ちにならないように注意しようと。そして、支配者がその場にいるときは、この支配者・虚無・光の話を決してしません(といっても、大嶋先生は本にして出版してしまっているのですが‥)。というのも、この仕組みを知って支配者の支配を逃れようとする虚無や光に対して、逆にこの構造を巧みに利用することで、自分の支配している人たちを己が支配から離すまいと、自分のいいような観念を吹き込んでしまうからです。 


大嶋先生は真理は宇宙に一つではなく、3つのタイプにそれぞれの真理があるとも伝えています。

「虚無」の方の真理は、輪廻転生があり、皆が神のわけ御霊で、一つであるという世界です。 「虚無」の方々は、渡り鳥や魚の群れが一つの心のようにパッ、パッと一体となって心が動き、お互いに心の垣根なく交流し合える時に幸せを感じます。

「光」が親和する世界は、唯一神との親子関係といった世界で、神に仕えることが光の幸せです。

「支配者」には神は居ません、自分自身が神だからです。そして、神として、虚無や光を支配し、その自由を奪い、自分自身のことでその人たちの意識を占めさせようと、さまざまなパターンを駆使して、その人たちと関わっていきます。どうしていつまでもそんな過干渉をするの、どうしてそんな虐待をするのなどと正論をいっても仕方ないのです。支配者にとってはそれが“お仕事”だから。


ただ、キリスト教やユダヤ教、回教など、唯一神信仰を持っている人だからといって「光」とはならないようです。自分の集っている教会では、牧師は光でしたが、信者には支配者が意外と多かったです。

まだわからないことがいっぱいです‥。 

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]