虐待されている子供が神に助けを求めた時、その子は心が求めているものに触れるので、虐待れていても生き延びることが出来るのです。

このブログをいま読んでくださっているあなたに平安がありますように 


以下のことはFAPの講習会でもらったテキストに書いてあったことです。 

読者の方の中にも思い当たるところがある方が―とくに過酷な幼少期をサヴァイブされてきた方には―いらっしゃるかもしれないと思います、転載させていただきます。 


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人は心が求めているものが得られなければ生きていけません。現実の両親から幻想の愛を感じられなくなり、解離して自分の幻想の中に入っても幻想の愛を作り出すことが出来なければ、本来なら死んでしまいます。 このときに虐待された子供は本当の死の恐怖を体験するのです。両親から性的に虐待されて苦しむのと、心が求めているものを得られずに死んでしまう恐怖が同時に襲ってきます。 

そんな時、子供は神に助けを求めて神に祈ることをするのです。神に祈って神に助けを求めた時に、虐待されている子供は心が本当に求めているものに触れてしまいます。幻想の愛に酔わされるのではなく、心が本当に求めているものに触れるのです。そして、心が求めているものに触れて、子供は虐待されていても生き延びることが出来るのです。 

現実の世界では、両親が自分を快楽の道具に使うような幻想の愛すら得られない世界で生きています。でも、その中で、「心が本当に求めているものを与えられる」という体験をしてしまうのです。 

時が経つにつれて虐待の記憶は失われてしまいます。それとともに、心が本当に求めているものに触れた瞬間の出来事も忘れてしまうのです。でも、心が求めているものに触れた時の感覚はその人の中に残っています。 心が求めているものに触れた感覚は、いつまでもその人の中に残るのですが、その時の記憶は抜けてしまっています。祈った記憶が抜けてしまっているのです。 

だから、心が求めているものに触れた時の感覚がどこから来たのかわからないので、虐待された人は、心が求めているものに触れた感覚を探し求めます。こうなってしまうと、幻想の愛では全く満足することが出来ず、陶酔感が得られなくなってしまうのです。 

幻想の愛の陶酔感が得られなくなると、死の苦しみがやってきます。なぜなら、「人は心が求めているものがなければ死んでしまう」からです。この死の苦しみから逃れるために、虐待された人は、心が求めているものを人の中に求め続け、人の幻想の愛に傷つけられてしまいます。その度に、死の恐怖に襲われて「死にたい」「死んだ方がまし」の感覚になってしまうのです。 こうして、うつ状態、不安障害やパニック、そして摂食障害やアルコール・薬物依存の生涯が出来上がっていくのです。 

幻想の愛の象徴である親に虐待されて幻想の愛に絶望をしたときに、死の恐怖に襲われて底をついて、心が本当に求めているものに触れてしまったために、心が求めているものでしか満足が出来ないのです。でも、心が求めているものに触れた瞬間の記憶がないので、どうやったら再び心が求めているものに触れることが出来るかがわからず、心が求めているものを探し求めるのです。 

でも、人の中には見つからないので怒りが蓄積し帯電して解離をしますが、幻想の愛では陶酔感が得られずに苦しみ、さらに強い幻想を求めるという仕組みになっているのです。症状を起こしている人は、心が求めていることを知っていて、それを探し求めていて、幻想の愛では決して満足することができない人なのです。

                      FAPテキスト(文責は泉園子先生)28~29ページ 


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大嶋先生、天才。 


これ、FAPという心理療法の解説の文章ですから‥すごいですよね。まるで信仰書みたい。 虐待の中で祈り神に触れてしまったがために、その後の人生では、他の人たちのように親子愛や恋愛などの幻想の愛(結局突き詰めればそれらも自己愛の延長したものに過ぎませんので)で適当に酔いながら日々を送っていくことが出来ず、神の真実の愛を神以外のものに求めて、でも、当然、そこでは得られず、ついに心の病となって表れ、病院に通うようになる。

でも、過去に真実の愛、神に触れていなかったら、生き延びることも出来なかったわけで、やはり、それは必要な過程だったのです。

でも(でものでも)、

さらにいえば、その無くしてしまっていた本物の愛に出会った記憶を取り戻せれば、すなわち、本物の愛に再会することができたならば、これまでの人生で形成された障害は解けていきます。  


ここで、私の頭に、み言葉が想起されます。  


私は、主の恵み(ケセド)と、主の奇しいみわざをほめ歌おう。 

主が私たちに報いてくださったすべての事について、

そのあわれみと豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみ(ケセド)について。  


主は仰せられた。 「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」 と。こうして、主は彼らの救い主になられた。 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

                     イザヤ書62:7~9 


上の聖句をネットで検索していたら、次のような解説に出会いました。 

1行目の「恵み」と3行目の「いつくしみ」とは、ヘブル語ではケセドという同じ言葉が使われているとのことで、他の国の言葉に訳しにくい言葉で、「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がされるそうです。 

「その基本にあるのは、「契約に基づく愛」です。人間の世界では、結婚の時の誓約と似ています。誓約に基づいて、状況が変わっても、気分が変わっても、変わらない愛を伴侶者にささげる行為がケセドです。」 

ということでした。 


さらに、サンダー・シングの証も想起されました。そのお話を誰かがアップしてくれてるのではと探しましたがなかなかありません。探してる中で、釘宮義人さん-牧師なのかな(牧師さんでした)-の「救いの確かさについて」という一文に出会いました。ちょっと長いですが、載せさせていただきます。 


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「救いの確かさ」                釘宮義人 


 次に三つの尊い証しを紹介します。 

第一は、イスラエル生れのユダヤ人ルベン・ドロンという人のことです。 彼はゴラン高原の戦場で、近くにいた戦友が弾丸で倒れる死の現場を見た。兵役を終わった彼は改めて死と生の真理を求めた。しかし、人の心は可笑しなもの で、かえって彼の心は堕落し崩壊する。 

でも、不思議! その時、一人のすばらしいクリスチャンに会う。彼に訴える。

「私も生ける神に会いたい。どうしたら 生ける神に会えるだろうか」。

その友は答えた、

「ひざまずいて、神の御顔を求めるんだよ」。  

ドロンは裏庭の茂った草むらにひざまずいた。そして見えない神に語りかけた。いろんな難問を神に浴びせた。彼の唇からは沢山の質問が出た。しかし神から はなんの応答もなかった。かえって明確に聞こえるのは 

「祈るのは止めよ、止めよ。お前の馬鹿げた質問に答えてくれる者なんか、いるものか」 

という悪魔の声であった。 やがて彼の質問の種も切れかけた。最後に言った。 

「神よ、あなたに近づくためには、あのナザレのイエスを信じる必要があるのですか」。 

なんと、その時神 はお答えになったのだ。天からの声があきらかに聞こえた。 

「しかり、お前にはあのナザレ人イエスが必要である」 

と。 

この言葉が彼を変えた。神様からの命が尚も続いて注いでくるように思えた。彼は神様からの命を飲みつづけた。彼は生ける神に会ったのである。彼は今、日毎、ユダヤ人たちにイエスの命を証言している。

           (「ハーベスト・タイム」1998・10月号より適宜抜粋して転載) 

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次はジョン・ラジャーというインドの人のことである。 

彼は子どもの頃から口に障害があり、声を出して話すことができなかった。 だれも彼を相手にしない、孤独です。十四歳の時、彼は苦しみのあまり自殺しようと思った。夜の十二時ごろ鉄道の線路にたたずんだ。彼は神様が存在することや、奇蹟を行ってくれることは知っていた。しかし、まさか自分の為に奇蹟をしてくれるとは夢にも思わなかったのです。 彼は短く祈りました。 

「もし、あなたが居られるなら、私に語り、私の口をなおしてください。そうすれば、私は残る生涯、あなたに仕え、あなたが行けとい う所にはどこへでも行き、あなが為せということはなんでもします。しかし今、私の口をなおして下さらなければ、私は列車にひかれて死んでしまいます」。 

彼は線路に立った。 列車が近づく、体が震える。もう駄目だ、と思った時、声が聞こえた。 

「子よ、私はあなたを選んだ。あなたは家に帰って聖書を学びなさい」。 

彼は驚いて線路を跳びのいた。その彼の横を列車が猛烈なスピードで通り過ぎた。

彼は夢中で家に帰った。 帰ってみると、家族が寝ているので電気をつけられない。祈ろうとするが涙が出て祈れない。しかし気がつくと部屋が明るいのです。神の栄光が部屋に満ちている。その不思議な光の中で彼は聖書を読み始めた。 翌朝になった時、彼はすっかり自分が新しい自分に変わっているのに気がついたというのです。 

(この人の、列車にひかれて死にますなどと神様を脅迫?する ところや、光で周辺が満ちるところ、実にサンダー・シングや私(釘宮氏)の父の体験に似ています。

アジア・キリスト聖書学院の機関紙「CFAニュース」1998・ 10月号より抜粋)


 これは日本での例です。

木村後人先生の出しておられる「原福音」第二十号(1999年2月)に載っていた先生のあかしです。以下に失礼ながら適宜抜粋して転載させて頂きます。文中私というのは木村先生のことです。 


かつて沖縄の小さな病院に一人の婦人を訪問した。 病室の片隅に三人の子ども(長女が中学生くらい)がいて、おじけたような顔で私を見ていた。母親はもう 末期症状で衰弱しきっていたが、言葉は意外にしっかりしていた。それはほとんど、自分や子どもたちを捨てて行った夫や、非情な世間に対する恨み言であっ た。そして終わりに言った。 

「先生、神様や永遠のいのちなんて本当にあるんでしょうか。生きていてこんな目にあうなんて……、私には神さまなんて信じられません」。 

私には返す言葉がなかった。なんとか神の愛を説こうとしたが、そんなきまり文句を語れるような雰囲気でなかった。しかたなく沈黙していた。そして必死で 神様に助けを求めていると、突然、ある光景が心に浮かんだ。私は静かに彼女に語りかけた。 

 「私はいつか丘の上に真っ黒に焼けたままのソテツが、その根元から可愛らしい新芽がふいているのを見たことがあります。あなたは沖縄の方だから、こういう光景はよくご存じでしょう」。 

彼女はハイと返事しました。 

「それと同じですよ、あなたの生命は滅びたりはしません。ソテツの根が土にかくれているように、あなたの命は神様の懐の中に 隠れているのです。神様にお願いすれば、きっとまた幸せな人として甦らせてくださいます。それに、あなたの命はあの子どもたちの中で一緒に居るんですから 大丈夫、何も心配する事はありませんよ」。  

彼女はそれを聞いて、少し安心したのか、顔が明るくなり、落ちついて 

「どうも、ありがとうございました」 

と礼を 言った。 その直後、私は沖縄を去り、上京した。それから二年ほどして、私を一人の少女が訪ねてきた。彼女は明るい笑みをたたえながら、 

「先生、私はあの時、病室 にいた長女です。先生が帰ったあと、母は別人のようになり、少しも愚痴や悪口を言わなくなりました、私たちにもやさしくなりました。あんな母を見たのは初 めてでした。そして亡くなる時もとても穏やかでした」。  

少女の話を聴きながら私の心は感動に打ち震えた。あの宿命に泣く彼女たちを、その鎖から彼女たちを解き放ち、全く新しい人生へと導かれたのは生けるイエスである。私ではない。私は不肖の弟子、ただ呆然自失していただけなのである。 

(以上、釘宮義人牧師の文章)

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見つかりました、見つかりました!サンダー・シングのお話。

これも、ちょっと長いですが、転載します。 


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ある臨死体験 わたし(サンダー)は、ある青年に 

「あなたは救い主のために何をしていますか」 

と尋ねたことあがある。彼はこう答えた。 

「わたしがしなければならないようなことを、キリストが私にしてくれたのですか」。 

わたしは言った。 

「キリストはあなたのために血を流され、いのちをお与えになったのです」。 

彼は言葉を返した。 

「待ってください。それはわたし個人のためですか。キリストは全体のためにいのちを与えたのでしょう。わたしが、返さなければならない何かを、キリストがわたし個人にしてくれたのでしょうか」。  


数ヶ月後、彼は重い病に倒れ、死の床にあった。そのときに、脱魂して幻を見た。 人生の様々な場面が映像になって室内に広がった。

その中に、まだ幼い彼が、二階のバルコニーから転落する場面があった。転落するときに、誰かが彼を腕に抱き止め、優しく地面に横たえた。この人の掌には”傷跡”があった。 

次に、彼は、自分が岩場から落ち、死を覚悟する場面を見た。このときにもある人が彼を救出した。その人の両掌には”傷跡”があった。 

さらに別の場面で、彼は毒蛇を踏んでいた。だが、ここでも、蛇に噛まれないようにと、何者かが蛇の鎌首を押さえた。その掌には”傷跡”が見えた。 

次に、室内で密かな罪に耽っている場面を見た。すると、またもその人が現れ、傷を見せながら、罪を犯さないようにと彼に願った。 

これらの場面を見せられているときに、キリストが現れ、こう言われた、

「わたしは、あなたにこれだけのことをしたのにもかかわらず、あなたはわたしが、何もしなかったと考えている。あなたは今、死を前にしている。ここで死ねばあなたは確実に地獄に行く。だが、今度もわたしはあなたを死の淵から救い出す。行って、神があなたのためにした、この大いなる出来事を人々に話しなさい」。 

こうして、回復した彼は神のしもべとなった。 

 第Ⅱ部 聖なる教え 第八章 講話録より サドウ・サンダー・シング 

『イエス・キリスト 封印の聖書』 

イエス・キリスト 封印の聖書 ―蘇る原始の教え /徳間書店 ¥2,052 

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 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。 

まことに、あなたがたに告げます。 

彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 

マタイ福音書18:10 


 5羽の雀は2アサリオンで売られているではありませんか 。 

それでも神は彼らを気遣うのですから、あなたがたを気遣わないはずがあるでしょうか? 

あなたがたの命、あなたがたの幸福を? 

あなたがたの髪の毛も父に数えられています。 

彼の子らになされたどんな悪も、気づかれないことはありません。 

なぜなら、あなたがたは彼の子だからです。 

『私に啓示された福音 6巻下』421.7 


 というみ言葉と、新キリスト伝の言葉を思い出しました。 

そして、スエデンボルグも報告していました。 

幼子の純な祈りほど、天に嘉(よみ)されるものはないと。 


 

あなたに、平安がありますように。 


 下には永遠の腕あり

ヒルティ喫茶:虹息

ヒルティに代表される敬虔派のことについて、語り合える友がほしいなぁ‥というのが、このサイトを始めた動機です。その時々の気付きや感銘を共有していければと想います‥[コメントにすぐに応答できないかもしれません。]