FAPとヒルティ
■「支配者」の救いは?
「支配者」について、FAPで紹介されている姿が誤りのない真実であれば、確かにやりきれません。
「支配者」「虚無」「光」の生れつきは生涯、変わらないということも。
大嶋先生のいう脳の無線LANネットワークや人類のタイプについて、ヒルティも洞察していたようで、『眠られぬ夜のために 第2部』8月26日、『同 第1部』8月26日(奇しくもどちらも一昨日の文章でした)に出てきます。FAPの3タイプの報告より、ヒルティのいう「犯罪者的素質」「天上的素質」についての観察の方がよほど救いがあります。おそらく、
【ヒルティ】 【FAP】
「犯罪者的素質」= 支配者
「天上的素質」 = 虚無・光
と対応するのだと思います。長いですが、以下に引用します。
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犯罪者的素質の人というのは、気まぐれからにせよ、あるいは、自分の利益のためと思い込むにもせよ、あらゆる義務にそむき、その際じゃまになるすべての人を犠牲にすることができる者のことである。このような素質の人間が、みんなに尊敬される地位にいることもある。彼らが罪を犯さないのは、単なる偶然か、神の恵みによる。
しかし彼らも、神の恵みと自分の自由意志とによって、その悪い天性を改め、聖徒にさえなれるということは、すこしの疑いもない。このような生まれつきだからといって、決して絶望してはならない。
天上的素質の人とは、生れつきあらゆる悪と卑しいものをきらい、たえず他人のために自分を犠牲にすることを喜ぶような人である。いかんながら、ここでもつけ加えねばならないのは、このような人たちも悪くなることがあり、それも、不穏当な結婚によって起ることが最も多いという点である。
静かな時に、あなたはどちらの素質の人間であるか、自問してみなさい(どちらの素質を持っているかは、あなたの責任ではない)。そして、どんな状況にあっても、善によって勝利をおさめてから、この世を去るのだと決心を固めなさい。
生れながらの素質の相違や、生れた家柄のよしあしの差異は、もし人間に自由意志というものが存在せず、したがってこの上なくよい境遇からもエゴイストが生れ、泥沼のような世界からも気高い人間が出てくるということがなければ、たしかに人間の運命の不公平な配分を訴える一つの理由ともなるであろう。だが、そういうことは全く計算できないものであり、いずれにせよ変えがたいものではない。
たしかに大多数の人たちは、もっぱらその実際の生活態度から判断すれば、右に述べた両極端の中間を占めているように見える。しかし彼らの本性の根本においては、そのどちらか一方にかならず属しているものだ。ひどい見込みちがいを経験したくないと思うなら、このことを見のがさないようにするがよい。
ヒルティ著『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫
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こちらの方が、魂の救済を目指すセラピストの方にも、何らかの救いが自分に必要と希求している人たちにはずっと受け入れやすいのではないでしょうか。
■「支配者」「虚無」「光」の交差点
これから書く話、テキストを探してみたことがありましたが、該当箇所がなくて、大嶋先生が講習会で口頭で仰ったものを私がうろ覚えで覚えているもので、大嶋先生が言ったそのままをお伝えできなくて申し訳ありません。
確か、「支配者」の支配から「虚無」や「光」が離脱し、自身の課題を克服し、「虚無」は虚無同士でわけ隔てのないひとつの有機体のようになり、自分たちの受けるべき光を、神とつながり神の導師となった「光」から受けるというような人類の構図を、さらっと話されたような気がします。正確ではありません。
ちなみに、虚無が虚無になり切った姿がお釈迦さまとFAPのテキストには書いてありますが、お釈迦さまその人は「光」です(by私のこころ)。
■3タイプの説明の効用
「支配者」の描写はセラピストとしては無力感を感じさせますが、この3タイプの説明は、「支配者」にすることが禁じられており、「虚無」や「光」にしかしません。この3タイプについて説明することは、すくなくとも、「虚無」や「光」の人たちには、自分たちの生い立ちや生きにくさの成り立ちについて、怨みを増幅させることなく、諦念をもって受容しやすくさせるという効用があります。
■マザーテレサが支配者?
マザーテレサや水谷修先生が支配者というのは大嶋先生が仰っているわけではありません。私が私のこころに尋ねたのです。ただ、私自身も私のこころから返ってくる答えに100%の信を置くことはしません、間違っているかもしれない。
支配者でも「天啓」を受ける人がいますし、「聖人」「聖女」がいます。 人間の階層(真相?)についての理解は、私の場合、トマス・ア・ケンピス、アッシジのフランチェスコ、カール・ヒルティ、サンダー・シング、スヴェーデンボリ、マリア・ヴァルトルタと導かれて形成させられたものですので、かなり一般とは、またキリスト教徒とも、ニューエイジの人たちやスピリチュアリストとも隔たっていると思います。
「だれも罪に定めてはならない」というのが主イエスのお言葉なので、他人の内面を云々することは私たちのすべきことではないのですが、私の心情は、他の人たちが憧れるようにはだれか特定の人を崇敬しないようになってしまっています。ただ、主のみが私たちの受ける太陽であり、私たちは全体で一人の巨大な人を形成し、私たちそれぞれがその巨大人の各臓器、各機関、個々の細胞といったかけがえのない存在で(もちろん優劣はありません)、その霊の太陽を受ける受容器、すなわち「野の花」であると。
私の見ているものを、読者の方に誤解を与えないで説明できる自信がありません。 私自身、中学3年からの8年間、プロテスタントの教会に通い、その教理に漬かり(洗脳され?)その薄暗い迷蒙の森で迷い、スヴェーデンボリ、さらに今の教えを受け入れられるようになるには、かなりの危うい道を通り抜けなければなりませんでした。いま、私は当時の私が求めえなかったものを受け、自らはたどり得なかったところに連れてこられました(こんなとき「身に余る僥倖を得た」という言葉を使うんでしょうね)。それは振り返ると、まさに、黄金の羽根の鷲にさらわれて、気を失い、気が付けば、たどり着いていたという神曲の煉獄編第9歌で歌われているような飛翔で、自らからはとてもたどり得ない道ゆきでした。
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