これは、あまりのことではないか。
コメント《教会って難しいです》
牧師さんは 私の病気を偏見でみていて まるで私が普通の人でなく バケモノかのようにいうことがあります 。でも愛のある場所のはずの教会の牧師さんが ただの人間で無知であることが 私は納得がいきません(ノ_・。)
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
上の投稿をもらって、ヒルティの先月14日の文章を思い出しました。
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
7月14日
もし歴代のローマ教皇が、ヨハネによる福音書14:17にいうような「真理のみ霊」を、つねに持っているという確証があるならば、たといカトリック教会に属していなくても、われわれはよろこんで彼の言葉を聴き、それを信じるであろう。
霊的な事柄において絶対に誤りをおかさない人がだれかひとりでも、その時その時に、地上にいてくれたら、それは素晴らしいことにちがいない。だが、それはたぶん神の計画でも意志でもなさそうである。
そうではなくて、それぞれの人がみずから真理を、いや、まさにこの真理のみ霊を求めねばならないし、またそれを持つことができる。これが神のみこころである。
歴代の教皇が、宗教上の事柄においても、ましてその他の事柄においても、この霊を必ずしも持っていなかったことは、歴史が十分に証明している。といっても、宗教改革者や、プロテスタントの教会会議委員や、あるいはこの派の各教会の最高首脳たちも、この点で特に恵まれていたわけではない。また、人間によるどんな聖別も、このみ霊を授けることはできない。
み霊は風のように思いのまま吹き、随時、その器となるべき人間をみずからさがし出すのである。」
ヒルティ『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫
主イエスさまも、当時の宗教指導者らについて言いました──
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
イエスはその教えの中でこう言われた。
「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
マルコ福音書12:38~40
「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。‥
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
マタイ福音書23:13~28
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
「律法学者たちには気をつけなさい」との警告の言葉は、現在ではさしづめ、「牧師たちには気をつけなさい」と置き換えられるのでしょう。時代は変わっても人の振る舞いと構図は変わりません。そして、どの時代の宗教支配者も、「もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう」と言うばかりに、古い教会の指導者たちを自分たちとは切り離して関係のないものであるかのように批評するのです。主は、それこそが、「あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している」のだと指摘します。本当は、私たちも、今まさに、彼らと同じことをしているかもしれない、とどこまでも偽る人の心におののいて、いうべきだったのに。そして、どの時代の指導者たちも陥った陥穽に、自分たちも同じく陥らないようにと主の照らしと憐みを求めるべきであったのに。彼らは「やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。‥彼らは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」
しかし、聖書の教えの中ではるかに重要なものは、「正義とあわれみと誠実」で、これこそしなければならないことです(正義とは愛のことです)。しかし、彼らは白く塗った墓です。その上を歩く人はそれに気付きませんが、その中身は「強奪と放縦、偽善と不法」といった「死人の骨や、あらゆる汚れたもの」で満ちています。「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
ヤコブの手紙 3章1~2節
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
バビロン捕囚の前から、神を民に取り次ぐ立場に居ながら、民を虐げていた指導者らに向かって、神である主は警告を与えーしかし、その本心は裁きではなく、「彼らを赦してください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないでいるのです」という、滅んではいけないと己が命を賭すまでの愛ですー、虐げられている民には救いを宣言されました。
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」
と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」
と主は言われる。
「このわたしこそが、このわたしだけが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」
と主は言われる。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。 王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。 彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書23:1~6
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
そして、バビロン捕囚時代にも、預言者エゼキエルを通して、
その立場を利用し、自分に掠め取るばかりで無慈悲な民の指導者らに向けて訴えかけられました。──
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
主の言葉がわたしに臨んだ、
「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。
牧者は群れを養うべき者ではないか。
ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
わが羊は散らされている。
彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。
それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。
それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、
見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。
主なる神はこう言われる、
見よ、
わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させる
と主なる神は言われる。
わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、
傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、
肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。
主なる神はこう言われる、
あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、
これは、あまりのことではないか。
わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。
それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。
主なるわたしはこれを言う。
わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。野の木は実を結び、地は産物を出す。
彼らは心を安んじてその国におり、
わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、
彼らはわたしが主であることを悟る。彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
彼らは
その神、主なるわたしが彼らと共におり、
彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟る
と、主なる神は言われる。
あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。
わたしはあなたがたの神である
と、主なる神は言われる。
エゼキエル書34:1~31(口語訳)
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
「これはあまりのことではないか」 の主の言葉に触れたとき、虐げられる子らを、涙を流しながら見ておられる主の深い憐憫の情が伝わってくるようでした。人の姿をとって私たちの中で生活された主も、私たちに向けられたそのご自身の熱くたぎるような思いを現されました。
.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:
そこでイエスは、すべての町と村とをめぐり歩いて、彼らの会堂で教え続け、王国の福音を宣べ伝えつつ、すべての病とすべての患いを癒し続けた。
さて、彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。
マタイ福音書9:35~36
*「断腸の思い」
晋(しん)の武将、桓温(かんおん)が 敵国を攻めようと船に乗ったとき。 彼の部下が猿の子供をつかまえて、船に乗せてきました。 すると、母猿がとても悲しい声をあげながら どこまでも追いかけて、ついてきます。 そして、長いあいだ追ってきたあと 母猿は船に飛び乗ってきましたが、 そのまま苦しんで死んでしまいました。 なぜ死んでしまったのか、 しらべてみると母猿のお腹の中で、 腸がひきさかれたようにちぎれていたのです。
『世説新語(せせつしんご)』
0コメント