診療で大切にしていることは‥
最近特に感じるのですが、患者さんに優しくできません。
ひとつお聞きしたいことがあります。
先生が日々の診療で大切にしていることを教えていただけます でしょうか。
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診療で大切にしていることは‥と聞かれて、考えて思いつくのは、
非侵襲的であること、そうあれるように努めることでしょうか。
戒めでも2段階あって、 1段階目は「悪をなさないこと(自分にしてほしくないことは人にしない)」で、 2段階目は「善をなすこと(自分のしてほしいように人にする)」となっていますが、 私の場合、第一段階目です。診療においてということでは「非侵襲的であるよう努力すること」になります。月並みですが。 怒らないこと、責めないこと、苦痛を与えないこと、負荷を与えないこと ですね、し切れてないと思いますが。
私は短気なので、ほんとにこれまで、なんどとなく、怒りで相手を傷つけ、自分の立場を悪くしといった失敗を繰り返してきました。そこで得た教訓は、「怒りはいつも間違っている」ということでした。怒ることで建設的な何かが現れることはありません。逆に言うと、怒らなくても物事はそれなりに改善していくことができます。「怒りは短い狂気である」とのローマ詩人の言葉をよく思い出しながら仕事を、生活をしています。医師生活も20年の歳月を経て、そんな私も、患者さんに、職員さんに、ずいぶん穏やかにやり過ごせるようになりました(当人比。こうなるまでに私の被害を受けた人たちには申し訳ないばかりです。その人たちの受けた被害に優る祝福を天の父にお願いするしかできません)。
だから、とにかく怒らないこと。祈り、祈り、祈りです。
医師の言葉は、私たちが思っている以上に患者さんに重く受け取られるので、それを勘案しながらすることも必要ですよね。 自分の疲れや焦り、こまるなぁ‥、いやだなぁ‥、面倒だなぁ‥をわずかでも表情や言葉の端に表に出すことも、患者さんには大きな負担になりますしね。
認知症の人への接する基本と、患者さんに接する心がけについての方向性は共通するかもしれません。
指摘しない・議論しない・怒らない
指摘は、療養面での注意事項として、患者さんに有害となっているものについては、ある程度せざるを得ないのですが、なるべく最小限に、鷹揚に。人はすぐには変われない、時間がたっても、何度言われても変われないことも多い、というかほとんど。
議論は、あたうる限りしない。長い物には巻かれよ、で、極力争わないこと。
「他の人々が欲するままに任せておいてよいことが、世の中には限りなく多い。結局それはどうでもよいことだからだ。そうすれば、自他共に生活が非常に楽になる。」
『眠られぬ夜のために 第一部』7月16日
それらはまた、ヒルティが紹介していたゾイゼですね、
なにびとをも親切に迎えること、
話は手短にすること、
慰めて帰らせること、
いつまでもその人のことを気にかけないこと。
必ず、希望を持たせる伝え方をするようにしています。
「医者ができる最大の処方は希望である」とは中井久夫先生のお言葉です。
癌治療専門でやってきた先生が、医学の常識を超えた治癒を何度か経験し、その経験から、「絶対治らない」とは決して言わないようになったというエッセイ(メディカルトリビューンのリレー・エッセイ「時間の風景」)を読んだことがあります。患者さんやご家族の意向によっては、統計や見通しを伝えることはありますが、「絶対治らない」「一生薬を飲まないといけない」とは言いません。でも、けっこう、他の病院から転医してきた統合失調症の方など、最初の診察で、「薬は一生飲み続けなくてはいけません」と宣言されている人っておられます。
以上のようなことの具体的な接し方については、ミルトン・エリクソンからの流れを受けている現代催眠がすごく参考になります。 論理療法は、愛について、善についてそれを主題として語り合いますが、現代催眠は、やり取りの姿勢そのものが愛です。
『ナースだからできる5分間カウンセリング―看護現場で役立つ心理的ケアの理論と実際』
『教師だからできる5分間カウンセリング―児童生徒・保護者への心理的ケアの理論と実践集』
そして、祈ります。診察中も、聖霊に働いていただくよう祈らないとと思っていますが、たいがい忘れてしまっています‥(´_`;)。でも、思い出すたびに、それを気掛けます。仕事中はすぐ、祈りを忘れてしまうので、朝、職場について一番最初に机について、主の祈りとその日の知恵と助けを求めることを祈る習慣だけは続けています。もちろん、仕事中に思い出せれば、祈ったり、射祷したりします。
サンダー・シングを最初ワープロで入力変換したとき、「サンダー神具」と誤変換されたんですね。でも、不思議とサンダー・シングのことを現しています(ちなみに、スエデンボルグと入力したときには「末伝ボルグ」と誤変換されました。これまた、最後の審判を主の節理の内に見せられ、人々に伝えたスエデンボルグの役割を現しているかのようです)。
私たちは神の道具として接する人たちの前に立っているので、神に、この私という道具を使っていただけるように、自分の思い・命を退け、主に主導していただくこと。
「われわれが出会うそれぞれの人のために、われわれは何かしてやったり、言ったり、考えたりする責任がある。
次のようなことを試してみなさい、世間の人たちは、それをお上品と考えるからか、出会う人に対して、親しみの眼差しを向けもせず、冷淡に、そればかりか軽蔑をもってやりすごすことさえあるが、あなたはそうしないで、もしあなたがなにも言ったり行ったりできにくい場合は、少なくともその際なにか善いことや親切なことを考えてやるがよい。
しかしこのような場合はたいへん多いものであり、それがまたあなたの内的進歩のためのよい機会ともなるだろう。なぜなら、人びとはしばしばわれわれにつかわされた使者であり、神が通例用いられる不断の郵便配達人であるからだ。だが、いうまでもなく、神に反する霊の使者であることもある。 ところで、あなた自身は人びとに対して、どちらの霊の使者であり、郵便配達人であろうか。これこそ、大切な問題である。」
『眠られぬ夜のために 第二部』5月29日
結局、全て出会う人は、主が私たちの成長のために、また互いになんらかの善益をなすために出会わるために連れてきた人たちですので、そういう主からの使いとして見ていきます。
「王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
マタイ福音書25:34~46
一日一日の診療の組み合わせも主の完全無欠な全知による計らいですので、主がなんとかしてくださる、という信仰が求められます。
そのうえで、実際的に「知恵を尽くす」ことも必要で、もうされているかもしれませんが、診察前に問診票に記入してもらう、あるいは、さらにできれば、看護師に患者さんに聞き取りしながら問診票に記入してもらう、といったことができると、患者さんの満足度を満たし、医師の情報収集時間節約するということに役立ちます。
もし、いままで看護師さんがそんな仕事をしていなくて、そうしてもらうとしたら、『致知』の次のインタヴューが参考になるかもしれまえせん。
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「使ってやる」ではなく「使わせてもらう」
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【偉人一日一言/平成29年10月29日】
オレはお前の心が知りたい。
じゃがお前が挨拶をしてくれんかったら、いつまでたってもお前の気持ちがつかめんけぇ、
こっちもグラウンドで使いようがない。
ちょっとずつでもお前のこと知っていきたいけぇ、挨拶しようや。
達川光男(プロ野球指導者)
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【達川光男コーチの指導者論】
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監督が選手に対して心から「うまくしてやろう」とか、「共に汗をかいていこう」と 思えなければ、選手はついてきてくれません。 選手は、すごく敏感です。だから、大事なのは、 「いかに心を持って選手に接することができるか」、 それに尽きます。 心が伴わなければだめです。
挨拶一つできない選手がいたので、呼びつけて
「おい、ちゃんと挨拶せぇや! 国語の辞書見てみい。 挨拶は道徳とか礼儀とか、ちゃんと書いてあるだろう。 お前もやれや!」
と説教をする。でも一向にしないんです。 こりゃいかんと思って、自分でもう一度挨拶という言葉を調べてみました。 すると、「心を開いて、相手に迫る」と書いてあるんですね。 なるほどと思って、すぐその選手に
「オレはお前の心が知りたい。 じゃがお前が挨拶をしてくれんかったら、 いつまでたってもお前の気持ちがつかめんけぇ、こっちもグラウンドで使いようがない。 ちょっとずつでもお前のこと知っていきたいけぇ、挨拶しようや」
と言ったんです。 そうすると次の朝、その選手はバカでかい声で、
「おはようございます!」
って挨拶をしてくれました。
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それと、選手にたいして 「使ってやっている」 という気でいたころは、選手との距離をどうしても縮めることができませんでした。 いろいろと本を読んでみたりして、そのことに気がつきましてね。 すぐに選手を集めて、
「ワシはお前らに対して『使わせてもらう』 という気持ちがなければいけんと気づいた。 だから、お前らのほうでも『使ってもらっている』 という意識でやってくれんか」
と話したんです。 その一言で選手との距離がグッと縮まりました。 *** ─────────────────── 「偉人たちの一日一言」~致知出版社が贈る人生を養う言葉~
発行:致知出版社 書籍編集部
ということで、わたしがが日々の診療で大切にしていることの答えとしては
「非侵襲的であるように努めること」
です(どんなに努めていても、思わぬ採られ方をすることがありますが、それでも努めなければいけない)。それと「常に祈ること」は一心同体となっています。自分の命と真っ向から反する性質なので(自然の性向はいつも逆に流れていきます)。
すべての必要な知恵と助けは与えられるでしょう。
それでは、また。
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