わたしが一番信頼している日本語聖書

2年以上、待ちに待って、新改訳聖書2017、

‥だったのですが、いまは、前の新改訳に戻そうかなと思っています。


これまで、新改訳聖書を使っていました。

イエスさまが「です、ます」で話していますし、旧約聖書で神の御名(yhwh)が用いられている箇所は‘’とフォントを変えて標記していますし、「直訳」などの注もうれしいですし、イエスさまが主(yhwh)であると書かれていることが伝わるように訳されているからです。

ただ、不満に思う点もありました。全体に、福音書の訳は「です・ます」調で丁寧でいいのですが、パリサイ人らがイエスさまに喰ってかかったり、支配国の総督たるピラトが、被支配庶民で罪人として引っ立てられてきたイエスさまを尋問したりするときにも「です、ます」調の丁寧な物言いというのは、あまりに機械的な訳し方で、かなり違和感がありました。


「新改訳聖書2017」ではそれらも、改善され、最新の聖書学に基づいた翻訳になるとのことでかなり期待していたのです。2017年の出版を目指して、主となる4つの特徴としてあげられていたのは

①日本語の変化に対応、②聖書学の進歩を反映、➂原点に忠実、➃朗読に適した読みやすい日本語

でした。特に、⓶と➂に期待して、➂については、「新改訳聖書の特徴である“原文が透けて見える”翻訳を継承」と追記されていて、大いに期待したのです。


ところがどっこい、発売後、読んでみて、う~ん、う~ん、の連続、その翻訳のスタンスは、カタログに載せられた『新改訳2017』の「どのように変わった?改定内容の一例」でも示されていて、そこには次のような紹介文が載っています──


・日本語の変化に伴う約の変更

「かわや」と聞いて若い方々は「何のお店?」と思うかもしれません。そこで、「かわやに出されてしまう」は「排泄されます」と訳します。

・簡潔で読みやすい訳文

原文の糸を損なわない限り、簡潔で読みやすい訳語を採用するよう努めています。例えば、不要な代名詞の繰り返しを避けるだけでも読みやすくなります。「なぜなら・それは~だからです」は「~だからです」とするだけで、意味は通じます。


カトリックとプロテスタントの学者が共同で訳した画期的な聖書翻訳である新共同訳は、ダイナミック・トランスレーションといって、逐語訳や直訳ではなく、原文の表している内容を、翻訳する言語圏で表す内容の表現にして表す、いわゆる「意訳」的な訳し方が特徴でした。そのため、日本語としてスムーズで、読みやすく、流れのいい翻訳になっています。詩編などは、文語訳について美しくなっていると思います。でも、それでは、原文の肌触りが伝わってこないのです。それで、私は新共同訳聖書のここちよい日本語訳を捨てたのでした。

「新改訳」は日本語としてこなれていない感はありましたが、“原文が透けて見える”翻訳と言われると、確かにそのような訳文になっていて、そこも気に入っていたのでした。しかし、「新改訳2017」は、それを継承すると言いながら、上の紹介文にあるように、どちらかというと、新共同訳のダイナミック・トランスレーションの訳し方に近い、というか、私からみると、どう違うのかなという感じなのです。

「かわや」が現代の若者にわかりにくければ「便所」でいいじゃないですか、「排泄されます」に「トイレ」の語は消えており、「トイレ」で象徴される相応が抜け落ちてしまいます。「不要な代名詞の繰り返し」って、だれがそれを“不要”と判断しているのでしょうか?翻訳者でしょ。でも、その繰り返される代名詞は本当に不要だったのでしょうか?それは神のみぞ知る、いえ、あるものはひつようだからあるのでは?簡略に意味が通じればいい、日本語としての美しさを選ぶ、そういったときに省かれる言葉に、その言葉で表象される霊的な事項も省かれてしまうことがありえるのではないでしょうか?

ということで、「新改訳2017」は一通り読んだら、また前の「新改訳」に戻すつもりです。


そして、この2年間でのうれしい出版物最大のものが、田川健三さんの『新約聖書 本文の訳』でした!

これは、13年にわたって、田川氏が研究し出版してきた『新約聖書 訳と注』シリーズの訳の部分だけを抜き出して合本にしたもので、ノミと槌で岩山を掘り進んで貫通した青の洞門のように、コツコツと、実直に、こだわり続け、強靭な精神力で成し遂げた労作です。

田川氏は、

「新約聖書と呼ばれてきた書物は、本当はもちろん「聖書」ではない。…人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点も抱えて生きているその人間が書いた文章「聖書」、つまり超越的心的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。」

との理由で、この

「余計な粉飾を排し、教会の壁の外に解き放ち、原文の趣をありのままの姿で伝える、画期的な日本語訳新約聖書」

の翻訳作業を続け、完成されました。

しかし、私は、まったく対極の理由で、この「余計な粉飾を排し、教会の壁の外に解き放ち、原文の趣をありのままの姿で伝え」られた画期的な日本語訳新約聖書が、まさに、私の待ちに待った日本語訳聖書だと、今年、神さまからのプレゼントとして受け取ったのでした。

聖書の一つ一つの巻は、もちろん、時代とその人個人の能力、ものの見方の制約を受けて生まれた書物でありましょう。けれども、その制約も神慮の内に、この書物の一言一句が記され、そこに神意を宿して、この書物は「聖書」として私たちの下に届けられたと私は受け取っています。

神の言葉だからこそ、聖書学者や神学者、翻訳家が、教理に沿うように、あるいは、文章として流麗となるようにと手を加えることは、余計な作為、まさに“粉飾”であると、感じてきました。自分の親や師匠など、自分より優れた人の言動を、それより劣った能力のものが気を利かせたり、手心を加えたりして、取り繕ってあげる、補ってあげる、または、自分たちの教理に引き寄せた訳し方をしていく、そんなことが、聖書の翻訳では当たり前のように行われています。


聖書は神から来るもので、神によって啓示されたものであるから、神聖なものであると何人の口にものぼるが、み言葉の中のどこに神聖なものが宿っているかが知られなかった。

なぜなら、文字だけ読めば、それは普通の書物で、語調は変わっているが、今日の書物の外見に酔う観るような高邁な、輝いたものはない。

このために、神の代わりに、また神以上に自然を礼拝する者は、その考えは自分自身から来るものばかりで、主から来るものはない。だから、すぐ、み言葉について間違いに陥り、これを軽蔑し、これはどういう意味だ、あれはどうだ、これが神のものか、その無限の知恵を持つ神がこんなことを語るはずがない、少しばかり宗教的な説があり、説得力があるだけで、どこに、どこからその神聖さがあるというのだと、独り言を言う。

そう考えるような者は、主なるエホバは、天地の神であって、モーセやその他の預言者たちを通してみ言葉を語られたから、み言葉は神の真理以外の何物でもない、エホバなる主御自ら語られたことはそうに違いないと考えることができない。

まして、彼らは以下のようなことを考えるはずがない、すなわち、エホバと同一の方である救い主なる主は、福音書のみ言葉を、その多くをご自分の口で、残りはご自分の口の息、すなわち聖霊によって、十二弟子を通じて語られたと。また、主のみ言葉の中に、主が仰ったように、霊と命があり、主が光で、すべてを輝かせ、主はまた、「私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ福音書6:63)と御自ら仰ったように、主は真理であると。

『真のキリスト教』189,190

有名な話では、ルターが聖書をドイツ語に訳したときに、「信仰によって救われる」という文章に、nur をつけて、「信仰のみによって救われる」と言語にはない言葉を加えた歴史的な事実があります。自分の教説を強調するために、それから教えを受け、それに従って生きるべき神の言葉に、自分の思惑の方を優先して、本来そこになかった単語を捏造したのです!

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。

 もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、

 神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」

(ヨハネ黙示録22:18、19)

とはっきりと宣告されているにもかかわらず(ルターだってこの言葉を自ら訳したでしょうに)!


こういう聖書原点を自分たちの教理に合うように訳の時点で捻じ曲げていくのは、エホバの証人の聖書で顕著ですが、プロテスタント、カトリックそれぞれから翻訳されている聖書にも、多かれ少なかれ、それぞれの教理に合うように訳が脚色されているところがあります。それぞれのキリスト教会の教理はもともと、聖書の言葉から形づくられてきたもののはずですが、教理ができてしまうと、今度は、その教理が、聖書原典の言葉を自国語に置き換えるときに、その教理に引き寄せて脚色されていくのです。


あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。 ‥ こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。

マルコ福音書7:9,13


各協会の聖書翻訳について、「空文にしている」とまでは言いませんけどね。

でも、聖書をより深く、正しく知りたいと、ヘブライ語、ギリシャ語原典に当たって学んでいく人たちが存在しますが、それを思う時、多少自国語として滑らかさのない訳だとしても、逐語訳で原典の言葉遣いをそのまま伝えようとした翻訳と、自国語として綺麗に剪定された翻訳とではどちらが聖書のメッセージをより多く伝えているのでしょうか?


田川健三さんは、発想は真逆なものであっても、実直に、ひたすら実直に、原点に忠実に、原点そのままを日本語に置き換えようという困難な作業に打ち込んで、これを完成させたのでした。“原文が透けて見える”翻訳とは、まさに、この田川訳聖書にこそ、与えられるべき表現で、現在のところ、これに優る日本語聖書を私は見つけることができません。

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